2006年03月22日

捨て猫の「飼い主」

~迎えに来た事実にこころは救われる

 以前も書いたのだけれど、年が明けて間もないころ、散歩の途中で子猫を拾った。

 墓地につながる坂道からころげ落ちるように追いすがって来た子猫の顔は、目ヤニと鼻水でぐしょぐしょだった。必死に身をすり寄せて甘えるしぐさから、捨て猫だというのはすぐにわかった。病院からもらった薬を根気よく飲ませても白濁の消えない小さな瞳をみつめて、「呪っておやり」と私はささやいた。病気のお前を放り出した飼い主を、呪っておやりなさいね、と。

 子猫を拾って十日ほどたったころ、妙な噂を耳にした。墓園の管理事務所に「飼い主」だと名乗る人があらわれたのだという。一度は捨てたものの、なんとか見つけ出して引き取りたい、と連絡先を置いていったそうだ。

 やはり、この子は捨てられたのだった。こっそりと猫を置き去りにした場所に舞い戻るのは、どんな気持ちがするのだろう。恥をしのんで、罵声を浴びるのも承知のうえで探しに来たのではないか。

 捨てたんだぞ、と夫は語気を強める。凍えるような冬の日に、子猫を捨てたんだぞ。病気の子猫だぞ。今さらなにを、と言いたいのだろう。その怒りは私にもわかる。病気の子猫を真冬の寒空に放り出すのは、その首をひねって殺すのとなんら変わりがない。自分で手をかける度胸はないから、見えないところに捨てて葬り去る。

 「夜ごと、うなされたのかもしれないよ」と夫が言う。「うなされる?」「そうさ、呪っておやりっていったから、この子は本当に呪ったんだよ。夜な夜な、目ヤニ鼻タレの子猫が夢にでてきて、目覚めが悪くてしかたがないからしぶしぶと探しに来たんだよ、きっと」

 けれど、こころのどこかで救われる。迎えに来た、という事実に、私は救われるのだ。たとえ一瞬でも捨てたことを後悔し、生きるものの命の尊さに思いをはせてくれたのだとしたら、人として救われたような思いがある。

 ただ、どういういきさつがあって捨てたのか、なぜ探しに来たのか、聞いてあげるつもりはない。捨てた瞬間に、「あなた」の子猫は死んだのだから。


(東京新聞埼玉版・2006年3月22日掲載)

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