2002年09月25日

侵入者、そして協力者

9月17日。わたしはテレビの前から離れることができなかった。北朝鮮に向けて、日の丸をつけた政府専用機が飛び立つ。ずっと胸さわぎがしていた。空港、小泉首相、握手。映し出される画面を見ているうちにどんどん鼓動が激しくなる。よくないことが起きる。よくないことが起こってしまう。あきらかに不吉な「相」がそこに見えた。北朝鮮側が拉致事実をふたたび否定する、会談が早々に決裂する、最悪は小泉首相を狙うテロ事件だろうか。わたしは頭のなかでゆっくりと、考え得る「よくないこと」をひとつずつあげていった。思考することで冷静さを取り戻そうとした。

夕方になり、8人の死亡が発表された。被害者の安否確認は、名前や居所の確認、公表だと信じていたので、わたしは考え得る「よくないこと」として死亡という文字を思い浮かべられなかった。予想もしなかった結果に、テレビの前で呆然とした。不吉な相はこれだったのか。8人の死相だったのか。とっさに携帯で夫にメールを送った。「ひどい。こんなの、ひどすぎる」。ほかに言葉が思いつかない。夫は、被害者家族の共同記者会見が行われた第一議員会館にいた。

数日後、夫から一冊の本を手渡された。『拉致・北朝鮮の国家犯罪』。著者は、番組制作会社ジンネット代表の高世仁(たかせひとし)さんだ。「サンデープロジェクト」「報道特集」「きょうの出来事」など、取材・制作をしている番組は数多い。古くから北朝鮮を取材し、偽ドル事件を取材した『スーパーKを追え』や『追跡!北朝鮮工作船』(共著)などの著作がある。今回の拉致事件では、元北朝鮮工作員だった安明進からいちはやく横田めぐみさんを目撃した証言を得るなど、徹底した取材によって事件の真相を解き明かそうとしている。

ここ数年、夫の口から「北朝鮮」という言葉が出るようになった。夫は自分から積極的に仕事の話をする人ではない。どこでどんな仕事をしてきたのか、こちらから尋ねないかぎりは、あまり言わないほうである。出張から帰ると食卓の会話として、「どこに行ったの?何を撮ってきたの?」と聞いたりする。すると妙な単語が飛び出すことがたびたびあった。いずれも「北朝鮮」という言葉と一緒に出てくる。「工作船」「スパイ」「暗号」「乱数表」。なんだかあまりにも現実とかけはなれていて、わたしには古い漫画かスパイ映画の世界の出来事にしか思えず、あまり真剣に取り合わなかった。そして作り事のような話がでるのは、決まってジンネットの高世さんと取材に出かけたときだった。

拉致疑惑が大きくマスコミで取り上げられるようになり、その全容が明らかになるにつれ、夫の話は漫画でも映画でもないと知った。現実に起こっていたことなのだ。高世さんの『拉致・北朝鮮の国家犯罪』を読み進むうちに、夫から聞かされた怪しげな単語や新聞で目にした証言など、断片的に見聞きしていたものが現実として目の前に浮かび上がった。夫があそこに出かけたのはこの証言をとるためだったのか、新聞に出ていた目撃者とはこの人のことだろう。

当初、わたしはこの拉致事件をそれほど突き詰めて知りたいという欲求は持っていなかった。しかし、被害者家族の20数年間にわたる苦悩を知るにつれ、どうしようもないほど胸が苦しくなった。悲しみは怒りに変わり、わきあがる怒りはわたしをなぜなぜなぜと疑問の渦に突き落とした。なぜこの人たちを選んだのか、日本人を連れ去る目的はなんなのか、痕跡も残さずにどうやって連れ去ることができるのか。拉致っていったい何なんだ。知りたくて知りたくて次のページをめくった。

新潟の少女の失踪から21年目。失踪と同じ日、同じ時刻に著者はその現場に立っていた。学校の門の前から、警察犬が少女の匂いを失ったその角まで歩き、足を止める。11月、午後6時半。拉致のシナリオを思い描いていた著者は、この事件がそれまで言われていたような「遭遇拉致(通りがかった少女がたまたま工作員の姿を目撃したため拉致された)」ではないことを確信する。あたりは街灯の明かりもまばらな深い闇。二人の工作員が足音もたてずにつけている。ライトを消した白い車がゆっくりと近づいてくる。少女がその角に立ったとき・・・。静まりかえる深夜の居間で、本を持つわたしの手にじっとりと汗がにじんだ。

国家ぐるみで他国の人間を無理やり連れ去る、拉致というものに信じがたい驚きがある。それが現実にいくつも起きていることに震えるような恐ろしさを感じる。しかし、もっと恐ろしく背筋がゾクリとするのは、拉致事件には「共犯者」が存在するという事実だ。日本国内での拉致は、工作船でひそかに上陸した工作員が実行する。侵入者の仕業だ。だが、使用した車を現場から乗り去った「現地」の協力者がいる。消えた被害者の車を運んだと思われる共犯者がいる。ある人物に荷物を渡すだけだとだまし、工作員の所まで被害者を向かわせた地元の人間がいる。いずれも、侵入者と国内の協力者が連携した拉致工作だという。

著者は言う。「拉致問題とは日本の『国内問題』でもある」。今ようやくわたしは拉致の真相に一歩近づいたような気がしている。

・『拉致・北朝鮮の国家犯罪』高世仁(講談社文庫)・『スーパーKを追え』高世仁(旬報社)・『追跡!北朝鮮工作船』共著(小学館)


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■最近のイノウエ

●おでん

冬になるとコンビニの店いっぱいに漂うあの独特な匂いがいやでいやでたまらず、そのせいかずっとおでんが嫌いだった。そういえば両親もあまり好きではなかったのか、食卓でおでんを囲んだ記憶はあまりない。家でも、外でも、おでんに手を伸ばす機会はなかったといっていい。

なにを思ったか、先日通りすがりに入ったセブン・イレブンで、お弁当を抱えレジに並んでいるときにフトおでんに目がいった。お弁当を棚にもどし、おでんをいくつか買う。横で見ていた夫が「おでんを買うなんて、初めてだよね」と妙な顔をしている。自分でもよくわからない。

ウィンナー巻き、炭火つくねやき、もち入り袋。予想をこえて、これがなかなかうまかった。お腹がすいていたせいだろうか。「コンビニのおでんも意外にやるじゃん」と、最後にはぐびぐびと汁を飲み干した。この冬、我が家の食卓にはひんぱんにおでんが登場するだろう。すでに二度も食べてしまった。わたしはそういう女なのだ。

セブン・イレブンのおでんの汁を飲んでいたとき、とっさに「東電OL」が浮かんだ。渋谷円山町のアパートで遺体で発見された彼女は、「仕事」の前によくセブン・イレブンでおでんを買っていた。買うときはいつも同じ店で、「汁はたっぷりね」と注文していたという。安ホテルで、情事の前におでんを食べながら、いったいどんなことを考えていたのだろう。


●今月の酒

◎日本酒             ◎焼酎
  駿・純米吟醸           なかむら(芋)
  渓・純米吟醸           佐藤(黒)(芋)
                     たなばた(芋)
                     芋山田(芋)
                     不阿羅王(芋)

なじみのお店の日本酒は飲み尽くしてしまった。季節限定や「おすすめ」の日本酒メニューも時期的なせいもあって変わりばえがしない。仕方ないので、本格焼酎の開拓を進めている。日本酒は糖分が入っているせいか、口がベタつく感じが気になっていたのだけれど、焼酎はあと口がすっきりしていて爽快である。いまは店にある芋焼酎の全制覇をめざしているところ。あともう少し。

by ichiko : カテゴリー:エッセイマガジン

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