2002年03月28日

忙しさのなかでの美学

仕事で忙しがるのはみっともないことだと思っている。たとえどんなに忙しい状況にあっても、人の前では涼しい顔をしていたい。

徹夜明け、汗くさい服を脱ぎ捨て大急ぎで洗いたてのシャツをはおる。カサカサのお肌にファンデーションを塗りつけ、ぐきぐきとまゆげをかく。車のなかではドラゴン・アッシュを響かせ、大声でうたって気分を盛り上げる。猛ダッシュで喫茶店に飛び込むと待ち合わせ5分前。

息が整ったところに代理店の担当者があらわれる。「最近、仕事のほう、どうですか?」と聞かれ、「まぁ、ぼちぼちやっております」と余裕の笑顔をむける。相手が友だちのときは、「相変わらず、5分前行動だね」とほめられてホッとする。・・・というのがわたしの日常の美学であり、理想とするところでもある。

しかし、ここのところその美学から大きくはずれた日常を送っていた。聞かれる前から、「わたし、徹夜明けなのよぅ」とか、「コノ仕事にアノ仕事、それとアッチもあって~」などと言いふらしていた。ひどいときには、きのうの夜からここにくるまでのすべての舞台裏(どんなに仕事が忙しく、朝シャンする暇もなく、ファンデーションのノリが悪かったか、などなど)をえんえんと説明していた。ああ、ほんとうにカッコ悪い。

なぜこんなことになってしまったのか、それにはちょっとわけがある。

世の中には、自分だけが忙しい、と思っている人がとてもたくさんいる。こんなに仕事を抱え、あたふたと忙しい目にあっているのは自分だけだと思っている。そういう人たちは、ところかまわずその繁忙ぶりを主張したがる。外に向けて、「こんなに忙しいんだ!」と言い続けないと気が済まないようなのだ。

とある仕事関係の人は、メールの最後にいつも「自分がいまどれだけ忙しいか」を付け加える。用件のあとに「追伸」とあり、「○○企業の60ページ、○○広告の企画、○○雑誌への執筆など、これだけ同時進行しております(涙)」と書いてくる。

わたしには何の関係もない内容なので静かに無視するが、「(涙)」は見逃せないポイントである。「(涙)」のマークには隠された別の意味があるのだ。

もし、本気で「こんな忙しさはヒドすぎる、あまりの仕打ちだ」と嘆いているなら、「(涙)」という表現は使わない。使える心情ではないと思う。自分の身の不幸をすすんでふれまわる人なんていないのだ。

仕事の数を並べるときには、ひそかな自慢が込められている。組織の人なら、「これほどの仕事を任される能力があるんです」、「社内でそれをさばけるのはぼくぐらいなんです」という自慢だろうし、フリーランスの人の場合は「こんだけ売れっ子なのさ」と見せびらかしているのだ。

「自慢」しているのを自分でもうすうす気づいている。それを相手に悟られないために、「(涙)」を書くことで相手の気持ちをそらすのだ。

お酒を飲んでいる席でも、「明日の昼までに企画書を出して、と。あ、デザインラフ、4ページも明日までだっけ。それにあれも・・・」とえんえんと仕事の話を始める人がいる。「このご時世、忙しいのは良いことではないでしょうか」と応対すると、「やー、イノウエさんに来て手伝ってもらいたいぐらいだよ」などとふざけたことをいう。「山積みなんだよな、こなせるかな~」とグチグチ心配しているぐらいなら、酒など飲んでいないでサッサと帰って片づければいいのにと思う。

先日、ある会議に出たときのことだ。欠席してしまおうかと悩んだくらい、仕事がつまっていた。それでも出かけたのは、その会でわたしは部外者でありながらも全体をまとめる中心的な立場にあり、欠席するとその日の集まりの意味が半減してしまうからだった。

美学にのっとり、洗濯したばかりのシャツをはおって、5分前に会議室に入る。メンバーがひとりふたりと集まるが、進行役でもある肝心の担当者が姿を見せない。遅れること10分。やっとあらわれたと思ったら、「わたしは今日はとても忙しいので、ご挨拶だけで失礼させていただきます」とひとこと言って席を立とうとした。

「え? 出席なさらないんですか」「ですから、とても忙しいんですよ」

ものすごく腹がたった。「じゃ、わたくしも失礼させていただきます。トテモ忙しいので」と言ってその場を立ち去ろうかとも思った。部外者で、ボランティアであるわたしが参加しているのに、当事者である彼は「忙しいから」欠席するというのだ。ばかばかしいにもほどがある。

これだけ失礼な扱いを受けるのは、わたしが「ヒマをもてあましている」オバサンだと思われているからだろう。いつも一番先に会議室に来て座っているわたしは、彼にとっては「ヒマ」な人以外のなにものでもないのだ。

「忙しいのはあなただけじゃない」という言葉をぐっとのみこんで、わたしは席にとどまった。わたしだけではない。ほかのメンバーも、みんな忙しいなか時間をやりくりして集まっているのだ。なぜそれに気がつかないのだろう。

そうなのだ。忙しがるのをマイポリシーとしている人は、同じように「忙しいのだ!」と声に出して主張してみせないとこちらの事情がわからないのである。主張しない人はみんな「ヒマ」な人、として扱われるのである。涼しい顔をしていると、「どうせイノウエさん、ヒマなんだろうから」と思われてしまうのだ。

なんてこった。とあきれながら、忙しがる人の前では、わたしも同じように忙しさを強調した。日常の美学など、すっかりどこかに吹き飛んでしまった。「アノ仕事、コノ仕事、それから・・・」という人に、同じように「わたしもアレにコレにソレ」と、まるで張り合うように仕事の数や量を並べたてた。実に不毛なやりとりなのであるが、これが病みつきになったりするのだ。アレコレ仕事をあげていくうちに、自分がちょっとエラくなったような気がしてくる。「あら、わたしって忙しいのね。けっこういろんな仕事が来ているし。案外売れているのね」というようなバカげた思い違いにも発展していく。バカげていながら、うっとりした優越感にひたる瞬間を与えてくれたりもするので、どんどん調子づいていくのである。

そんなとき、わたしの目を覚ましてくれたのはある友人だった。

唐突に「ちょっと話がしたいので会いたい」といったにもかかわらず、友だちはすぐに都合をつけてくれた。わたしのあいている時間にあわせて、会いに来てくれたのだ。翌日も会うことになった。夜しか時間が取れないというと、その日もわたしの都合が優先された。時間どおりに彼女は家まで車で迎えに来た。

友だちは忙しがる人ではない。近ごろ面白い仕事はあったか、といったことを世間話程度にするぐらいで、それ以上のことはあまり話さないほうだ。

夜遅く、帰る途中に彼女の携帯電話が鳴った。どうやら代理店の担当者からのようである。「そっちのほうは今晩中に」とか「あっちは明日の夜までの約束でしたよね」などと言うのが聞こえてくる。かなりキワどい状況である。

ふと気になったので、「いま、忙しいの? もしかして時間なかったんじゃない?」と電話のあとで聞いてみた。なんだか、急に申し訳ない思いにかられてしまったのだ。

「まぁ、いちこちゃんと会っているぐらいだから、それほどでもないよ」と彼女はいう。それでもどうもひっかかるので、さらにつっこんで聞いてみる。「仕事、どれぐらい抱えているの?」。

彼女もフリランスのデザイナーである。よくよく聞いてみれば、今晩中を含め、明日までにデザインラフを提出するものがふたつ、今週中にあと4つ、合計6種類の仕事が同時進行しているという。なかには、名前を聞いただけでぎょっとするような大手企業の仕事もはいっている。

それをなんの自慢も見栄もなく、まして忙しがるふうでもなくさらりと答える。聞かれたから答えている、というあまりにも素っ気ない彼女の応対に、わたしはほれぼれした。まさにわたしの求めていた日常の「美学」と「理想」である。

「そんなに忙しいときに呼び出したりして悪いことをしたなぁ。どうしてひとこといってくれなかったのかなぁ」と思ったけれど、言葉にはしなかった。それをいうのは、今日こうして時間をつくってくれた彼女に対して失礼ではないか、という気がした。それに、答えは聞かなくてもわかっていた。

「会えないほど忙しいときには、わたしはきちんと断るよ。でも、来たからには忙しいそぶりは見せたくない。そんなことするぐらいなら、最初から来なければいいんだしね。忙しい忙しいっていうの、カッコ悪いよね」。「ふふふ」と笑いながら、彼女はそう答えるはずである。そういう人なのだ。

彼女はいつもきちんとお化粧をし、長い髪も美しくブローされてサラサラである。ピンとアイロンのかかった白いシャツ。マニキュアだってしている。たぶん、ものすごくハードな仕事をこなしながら、彼女なりの美学を貫いているのだと思う。

じゃあね、またね、と手をふって彼女を見送った。きっと今晩、彼女は寝ないだろう。わたしと会う時間を作ったために、寝ずに仕事をこなすのだろう。

忙しいことを自慢する人がいるいっぽうで、どんなに忙しくてもちっともそれを外に出さない人もたくさんいる。「だれもが忙しい」という当然の認識があり、忙しがるのはとてもみっともないことだとわかっている人たちである。


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■井上以知子のひとくちコラム

●ファンタジー

ファンタジーのどこが面白いのだ、といいながらお正月に『ハリーポッターと賢者の石』を観た。だまされたように面白かった。

案外その手のものが好きなのかも、と思ったので、『ロード・オブ・ザ・リング』にも出かけてみた。3時間はあっという間にすぎた。なにもしなくても進んでくれるRPGみたいだった。

気をよくしたわたしは、『ファイナルファンタジー』(これはDVD)も観てみた。評判はよくなかったけれど、わたしはとても気に入った。ストーリーもCGも思ったよりずっと素晴らしかった。

DVDのおまけのメイキングを見て、CGクリエイターというのは本当に気の長い人たちだとしみじみ尊敬する。わたしなんかは、制作工程の説明を聞いただけで気が遠くなる。ワンショットに何十枚ものレイヤーを使い、パーツだの光の反射だの、煙だのを重ねていくなんて信じられない。6万本の髪の毛を手作業でいちいち動かすなんて、聞いただけで倒れそうだ。

髪の毛といえば、主人公アキの髪はやたらと揺れる。風に吹かれさらりとなびき、驚いた拍子にゆらりと揺れ、立っているだけでもゆらゆらふわふわサラサラである。現実にそんなに動くか。執拗に動く髪には、男の願望が込められているわけね。

●今月のうまいもの

玄米にハマった。噂には聞いていたけれど、食べたことはなかった。玄米ビギナーのわたしは、「食べやすい」とその手の本に書かれていた「発芽玄米」からスタート。なかなか美味しいものである。

いまでは、100%玄米にしている。噛みごたえや、じわじわと味のしみでてくるような感じは、わたし好みである。しばらくはハマるだろう。

ついでに「押し麦」にも挑戦してみた。これは白米に混ぜて炊くと、おいしい。そのうち、いろいろなものが混じった雑穀米にも手をのばしてみようと思う。

麦には面白いエピソードがある。まだ結婚していないころに、夫の家(いまは隣)にご飯を食べに来たときのこと。お茶碗のなかには、白米に混じってなにやら茶色いものや、むかし文鳥のエサにしていた黄色のつぶつぶなどが入っていた。しげしげと見つめていると、義母は「変なご飯でびっくりしたでしょう、うふふ」とおもしろそうに笑うのである。

わたしは暗澹とした気分になった。「ああ、わたしはなんという貧しい家に嫁に来るんだろう。白米も食べられないウチなんだ・・・」と思いこんでしまったのである。このような山奥の田舎だったというのも、そんなふうに思わせた理由のひとつだろうと思う。

山奥、ひえ、あわ、麦、貧乏。などという言葉が頭のなかでうずまいていた。いま考えると、恥ずかしい勘違い、である。


●圧釜・おそるべし

炊飯ジャーを買いに行った。使い始めてもう7年になる古い炊飯器は、なかの釜も内装コーティングがはげてきていたのでそろそろ買い換え時期だったのだ。

というのは建前で、実はいまどきの炊飯器には「玄米モード」がついており、それで簡単に玄米がおいしく炊けると知ったからである。

なじみの電気屋に行き、炊飯器売り場で頭がくらくらした。たかがご飯を炊くだけなのに、これほど種類があるものなのか。値段も、1万円台から5万円台と実に幅広い。このなかから、どうやって選べばよいのだろう。夫も同じ気持ちのようで、ずらりと並んだ炊飯器たちの前でぼーっとしている。

あれこれ眺め、機能と値段を考えあわせたすえ、わたしは2万5千円の遠赤炊き、というものに決めた。ようやく決断した横で、「こっちの最高級・超圧釜っていうのも『夢』といえば『夢』だよなぁ」と夫がぼそりとつぶやく。

「夢」といわれると、ちょっと弱い。毎日使うものだし、ここはひとつ夢を叶えてやろうではないかという気になってしまう。予算を大幅に超えて、憧れの超圧釜・内装コーティングは備長炭、というのを買った。

その日は白米を炊いてみた。白米100%だ(って、普通のうちでは当たり前ですね)。たかが炊飯器ごときでご飯の味が変わるものか、と思っていたが、変わるのである。ぜんぜんちがう。

うちはそんなに上等なお米は使っていない。それにもかかわらず、米粒がひとつひとつふっくらと炊ける。つやつやである。噛みごたえもちがい、甘みも増すようである。う~ん、おそるべし圧釜。

by ichiko : カテゴリー:エッセイマガジン

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