2001年08月28日

若き日の自分に涙する

映画を見終わったあとでよく思うのは、いい映画に巡り会える確率はだいたい10本に1本ぐらいだなということである。1割という数字が映画の世界でどういう評価になるのかはわからない。野球選手だったら、打率が1割のバッターに将来はないだろう。でも、グッチのバッグが1割引きと聞いたら、買いに走る女の子も多いのではないかと思う。

もちろん、ここでいう「いい映画」というのはわたしの好みと独断によるものであり、まったくもって個人的なイノウエイチコオンリーの選別である。映画の歴史のなかで賞賛されるべき作品であるとか、誰々監督の代表作であるとか、アカデミーでなんとか賞を獲得したとか、そういうことはほとんど考えてない。

じゃあ、どういうのがイノウエ的いい映画なのかというと、一番最後に流れる出演者リストの黒い画面をぼーっと眺めつつ、「ああ、見てよかったな」とごく自然につぶやいてしまうような映画である。どんな作品であれ、わたしにとって映画はエンターティメントだ。楽しむためにある。正当に楽しませてもらったあとには、「見てよかったなぁ」と感謝にも似たひとことが漏れるものなのだ。

「見てよかったな」という言葉には、そのときどきによっていろいろなトーンがある。楽しむという行為は、陽気な笑いや明るさだけをいうのではないと思う。SFの非現実的世界や映画ならではの特殊撮影に目を見張り、豪快なアクションに度肝を抜かれる。想像の裏をかく緻密なストーリーにポンと膝を打つ。逆らえぬ時の流れに、人の運命に涙する。笑いも興奮も、そして切ない涙も、すべてエンターティメントだ。現実から離れ、その映画の世界にすっぽりと入ってしまう、それが楽しむということだと思う。だから映画を見るときは、「さあ、これから楽しむぞ」という意気込みがある。わくわくした期待で胸がいっぱいである。にもかかわらず、ヒットの打率は1割。10本のうち9本は、最後の字幕を眺めながら「なんだかなぁ」という気になる。「だからなんなんだよ、ちっ」と画面にむかって舌打ちしたくなるときもある。

ジャンルにはこだわらないほうだと思うけれど、最近は意識して避けるようになったものもある。恋愛映画はほとんど見なくなった。映画館でもレンタルビデオ屋でも、恋愛をテーマにしたものは気がすすまない。

ちょっと前まではけっこう好んで見ていたような気がする。メグ・ライアンやジュリア・ロバーツなんかは常連さんだった。うっとりして恋の成り行きをみつめていたものである。しかし、どうも最近は恋愛映画だけにかぎれば勝率は1割にも満たないのである。これはラブストーリーの質そのものが落ちたというよりも、わたしのほうの問題ではないかと思っている。

誰かと誰かが出会って、お互いにひかれあう。ちょっとしたすれちがいを繰り返しつつも最後は感動的なハッピーエンドを迎えるという黄金の展開に興味を失ってしまった。恋愛一色で進んでいく2時間ちょっとがただただ退屈でしかない。人の恋愛なんて、どうでもよくなったきたのである。

中年オヤジが秋のニューヨークでどんな恋をしようが、私生活で元恋人同士だった二人が映画で偶然の恋人になろうが、なんだかもうはっきりいって「どうでもいいや」というカンジなのだ。

枯れている。恋愛に興味を持てなくなったら、人生は終わりである。とまではいわないけれど、わたしのなかで何かが変わったのはまちがいないと思う。なにか大切なものが生気を失ってしおれてしまったような気がする。

そんなわたしがひさしぶりに恋愛映画を手に取った。レンタルビデオ屋で『初恋のきた道』を借りたのだ。タイトルにしても、ビデオパッケージにあるあらすじからしても、これ以上にないぐらいベタベタの恋愛ものである。それでも見てみたいと思ったのは、この映画に出ているチャン・ツィイーという女優にひかれていたからだ。

チャン・ツィイーは、米アカデミー賞で外国語映画賞など4部門を受賞した『グリーン・デスティニー』で初めて知った。19世紀初めの中国を舞台に、グリーン・デスティニーと呼ばれる天下の剣をめぐって繰り広げられる壮大なファンタジー・アクション・ロマンだ。

アジアの人気スターといわれるチョウ・ユンファとミシェル・ヨーの共演が話題になり、アメリカ、イギリス、台湾と世界で活躍する名匠アン・リ?監督に人々の目は注がれた。

けれども、映画のなかで最も光を放っていたのはチャン・ツィイーであった。少なくともわたしには彼女がいちばん魅力的に見えた。清楚できりりとした顔立ちのチャン・ツィイーに、貴族の娘イェンという役柄はぴったりだった。高貴な美しさ、気高さに満ちている。

穏やかなたたずまいを装うイェンには、まったく別の顔があった。隠れ箕としてイェンの家庭教師になっている賊の頭に、幼いころから密かに武術を教わっていたのだ。グリーン・デスティニーをめぐって、チャン・ツィイーは激しいアクションも披露する。壮絶な闘いを繰り広げるときの彼女の顔は、すでに貴族の娘ではない。強い意志と冷酷さを秘めた女剣士である。

また、イェンは砂漠の盗賊のローという青年と恋に落ちる。高い身にありながら、盗賊の男とこっそり契りを交わすのだ。激しい女である。淡々と振る舞う貴族の娘の、その胸の内は武術と恋を激しく求めている。ぐらぐらと煮えたぎって、テンパっている。チャン・ツィイーはその内面をみごとに表現していたのではないかと思う。

そのチャン・ツィイーの初めての映画が『初恋のきた道』である。19歳の時にチャン・イーモウ監督の『初恋のきた道』のヒロインに抜擢され、この映画をきっかけに『グリーン・デスティニー』のイェン役を射止めたという。ならば、見るしかない。たとえそれがベタベタの恋愛映画であれ、なんであれ。

最初に告白してしまうと、『初恋のきた道』はとてもいい映画だった。つまり、最後の字幕を眺めながら、「ああ、見てよかったなぁ」としみじみとつぶやいた映画である。正確にいうと、字幕はほとんど見られなかった。涙で画面がかすんでいたからである。全編を通して、じわじわとずっと涙してしまう、そういう映画なのだ。

ストーリーは、とてもシンプルだ。都会からやってきた若い青年に、少女は恋をする。想いを伝えるために料理を作り、やがてその想いは届くのだけれど、時代の流れに引き裂かれて二人は離ればなれになってしまう。町へと続く一本道で、来る日も来る日も少女は愛する人の帰りを待ち続ける。

ただ、それだけのことである。いつの時代にも、どこにでもある恋の話である。目新しいものはこれっぽっちもない。それに、現在からさかのぼって回想するという設定で始まるので、最初から「この二人は結婚する」というハッピーエンドも知らされている。

にもかかわらず最後まで画面に釘づけにされてしまうのは、チャン・ツィイーのみずみずしい表情のひとつひとつと、演技力のせいではないかと思う。『グリーン・デスティニー』では、みっつの顔を演じわけていながらもすべてに一貫していたのは冷たさだった。貴族の娘、武術家、恋する女。いずれの場合も、高貴なものの持つ冷ややかさのようなものが徹底してあった。

ところが、『初恋のきた道』のチャン・ツィイーにはそのカケラも見られない。まるで別人なのだ。青年に想いをよせる彼女は、ただひたすら一途に恋をするあどけない少女の顔である。純粋に、けなげに、ひとりの青年にまっしぐらに想いをよせていく。

彼女にはほとんどセリフがない。少女がどれだけ彼に想いを寄せているかは、その表情と仕草だけで語られる。青年に会えるかもしれないとわざわざ遠回りをして水を汲みに行く。歩きながら、青年が働いている学校のほうを横目でのぞきこむ。恥ずかしさに顔を染めながら、期待で目を輝かせながら、何度も何度ものぞきこむ。

男衆が働いている建設現場に、女たちが弁当を差し入れするシーンがある。それぞれ作ってきた弁当を大きなテーブルに置いておくと、昼どきに男たちが集まって勝手に食べる。誰が誰の弁当を食べるかはわからない。

少女は自分の作った料理を食べて欲しくて、青年が手に取りそうなところに自分の皿を置く。彼が食べてくれるかどうかもわからないのに、毎日メニューを変え、凝った料理を作る。男たちが食べ始めると、遠いところから少女は伸び上がったり、体を左右に動かしたりして、彼と自分の弁当のゆくえを探そうとする。

あるときは、子供たちと一緒に歩く青年の姿を追いかける。丘の上で長い間待ち続け、やっと遠くに青年の顔をみつける。いくつもの丘を渡り歩きながら、遠くから好きな人の姿を胸に焼きつける。

少女はいつも無言のまま、彼を待ち、彼の姿を見守る。回想のナレーションも独白もなにも入らない。悲しみのあまりに泣き崩れるときでさえ、ただ頬に涙があふれるだけである。とてもとても静かに物語は過ぎてゆく。

映画のもうひとつの魅力は、少女の後ろに映し出される中国の大自然の風景だ。緑の白樺の丘を走り、黄金の麦畑のなかを突き進み、吹雪の一本道で立ちつくす。美しく壮大なスケールの自然がひとりの少女の恋を包み込む。

その静寂のなかから、少女の胸の鼓動が聞こえてくる。激しい恋心のたかぶりが見ている者の耳にうねるように響きはじめる。

中国で、しかもずいぶん昔の話だから、女と男が自由気ままに会話ができる時代ではなかったというのもある。いつも彼女は遠くから好きな人の姿を探し、彼の姿をみつけるだけでその日一日はとても幸せな気持になれたのだ。

そうだ、恋ってそういうものだった。時代は問わないと思う。恋のはじめは、好きな人の姿を探し求めることだった。憧れている人が行きそうな場所をみつけ、遠くからその人の姿を探したものだ。そして、ほんのちょっと姿を見られただけで、胸がはりさけそうなぐらいどきどきした。

映画の全編をとおしてじわじわと涙したのは、そういうことだったのかもしれない。見ているときは何に涙しているのかわからなかった。大泣きするようなシーンはわたしの覚えているかぎりは、最後のクライマックスぐらいである。にもかかわらず、ずっと最初から最後まで涙があふれてくる。自分がなぜ泣いているのかわからない。なぜこんなに切ない気持になるのだろう。

チャン・ツィイーの切なくも一途な恋心は、遠い昔の自分の恋と重なるのだ。体育館の入り口からこっそりと中をのぞき込んだり、4階の教室の窓から校庭を見下ろしていたり、下校の時間に玄関のすみで長い間待ち続けていたあのころの気持とぴったりと重なりあうのだ。ああ、そうだった、誰かに恋をするってこういうことだった、人を好きになるってこういう気持だった。ひとりの人に深く静かに想いをよせるのは、こういう切なさと喜びに満ちていたんだ。

遠く置き去りにしたものが映画とともに胸につきあげてくる。それはなんというか、心のなかのいちばん奥深いところにじかに手を触れられているような、大切なものをゆさゆさと揺さぶられているような、圧倒的な手応えをもっている。けれど、いくら掘り返しても揺さぶっても二度とそれを手にできないことも知っている。

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■井上以知子のひとくちコラム

●補足その1
『グリーン・デスティニー』で感情を押し殺した貴族の娘を演じているチャン・ツィイーは、ときおり若き日の鈴木保奈美にそっくりな顔になる。友だちは「っていうより、まだ若くて清純だったころのマルシアのほうに似ている」という。いずれにせよ、「若き日の」と同じ条件がつくのは面白い。

チャン・ツィイーの3作目は、ジェッキー・チェンの『ラッシュアワー2』だ。殺し屋のマフィア役ということなので、あんまり期待できないかも。


●補足その2
『初恋のきた道』では、いつも少女はぶかぶかに着ぶくれしている。寒い村なのかしら。綿がいっぱい詰まった上着と、これまた綿でふくれたモンペで走り回っている。チャン・ツィイーは、細身でスタイルがよいのでなんだかちょっとかわいそうにもなる。でも、青年と会える日は真っ赤な綿入れの上着を着るんだけど、この赤が緑の山に映えてとてもきれい。


●だから男社会は、っていわれるのよ
『TVタックル』という番組に、多くの国会議員が出ていた。常連メンバーであった舛添要一や田嶋陽子が当選したので、豪華な顔ぶれである。ゲストでハマコーも出ていた。

田嶋陽子にキビしく突っ込まれたときに、ハマコーは信じられないひとことを口にした。「あんた、男と寝たこともないくせにそんなことわかるのか」とかナントカである。ハマコーにかぎらず、男は答えに窮するときまってこういう下品な発言を田嶋氏に突きつける。

男と寝たことがあるのか。政治を議論するときに、なぜそんな発言が出てくるのか。公の前で、「お前は男と寝てないから」と口にする神経とはどういうものなのか。政治ってそんな程度のものなのか。それで田嶋氏を一瞬でも驚かせたと思って、勝った気持になってる男って本当に最低。下劣。卑怯。

ほかのコメンテーターは誰もそのことを気にしていなかった。テレビの前で、「げーっ、最低!なんでこういうのがまかりとおるんだっ!」と怒鳴っているのはわたしひとりかしら。

なんかさ~、女ってまだまだ認められてないんだね~。まっとうに政治を語ろうとしても「男と寝たのか」ってわけのわかんない反論されるだけなのよね。

●独自ドメインを取る
ようやく、というか、ついにというか、独自ドメインを取った。http://www.5515.jpむふふん、である。ドメインを取得したついでにサイトのデザインも一新しようと思っているので、現在制作中。というわけなので、サイトに行かれても「Coming soon」の画像があるだけです。もうしばらくお待ちください。サイトアドレス変更とともに、メールアドレスも変更になります。一気に変更するので、そのときはまたみなさまにご連絡いたしますです。

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