2001年07月05日

7月を待っていた

物語は、白太太という占いばあさんのお告げから始まる。中国清朝末期。貧しい農村の寒々とした部屋で、白太太は遠い未来を予言する。

「聞け。おまえには昴がついている。おまえが生まれたときの星宿図。守護星は昴だ。汝は必ずや西太后の財宝をことごとくその手中におさめるであろう」

おまえと呼ばれているのは貧しい農家の少年である。名は春児。ばあさんのただならぬ雰囲気に怯えながらも、自分の運命に耳をそばだてていた。

春児は、ばあさんの言葉がにわかには信じられない。自分は道ばたの糞拾いをして食いつないでいるのだ。いつも腹をすかせ、糞にまみれている。この寒さでは、明日を生き延びることだってできないかもしれない。

西太后? 神々しく高貴な西太后様と、極貧のなかで生きる自分のどこに接点があるというのだろう。財宝を手にするってどういう意味だろう。

「聞け。いいや聞かずともよい、聞かずともそれはおまえに与えられた運命なのだから」

執拗に繰り返されるお告げの言葉。強く、確信に満ちた予言。白太太のしわがれた声をわたしも聞く。地の底から響いてくるような重々しい語りに圧倒される。

浅田次郎の長編歴史ミステリー、『蒼穹の昴』はそんなふうに始まる。

引力のある出だしなので、いやがおうでも物語の世界にひきずりこまれる。占いというものを信じてないわたしでも、白太太のお告げにはなみなみならぬものを感じ、予言を受け入れてしまう。浅田次郎の文章には、有無をいわせぬ力があるのだ。

わたしは占いに興味を感じない。世の中は星座、血液型、姓名判断、手相、人相、いろいろな占いであふれている。個人の持っている情報のなにかしらを手がかりにして性格を分析したり、現在抱えている問題をいいあてたり、この先どうなるかを予想する。

それがどうした、という感じである。いまさら自分の性格を他人から聞かされても(運よくそれがあたっていたとしても)「はぁ、そうですか」とうなずくだけである。自分が抱えている問題は自分でしか解決できない。占いの醍醐味は「未来」を知ることにあるのだろうけれど、それもまゆつばものである。

いつだったか、待ち合わせまでの暇つぶしに星座占いを読みあさったことがある。女性雑誌には必ずといっていいほど、「今月(今週)の星占い」が載っている。本屋に並んでいるすべての女性雑誌の星占いをかたっぱしから読んでみたのだ。

いい加減なのだ。水瓶座であるわたしは、「今月は絶好調、やりたかったことはいまのうちに」と書かれているかと思えば、「ここいらで少しクールダウン。不運は黙ってやりすごせ」だったりする。雑誌によって運勢はまちまちなのだ。星座という同じ規則で占っているにもかかわらず、どれひとつとして同じ予言はない。ふしぎである。

見る人によって解釈のしかたが変わる、というのもよくいわれることだ。星の位置、並び具合など、占いの物差しになる宇宙のあり方は誰にとっても平等である。そこからなにをどう読みとるのか、星に与える影響、運勢を見抜く方法は人それぞれ、つまり占い師によって変わってくるという。

たしかにそんなこともあるかもしれない。子どものころ、写生会でみんなで同じゾウの絵を描いても、いろんなゾウができたものだ。やさしいゾウもいれば、見るからにふてぶてしいゾウもいるし、真っ黒に近いダークなゾウ、鼻ばかり強調されたゾウもいる。どんな印象を受けたかで、描く絵も変わるのだ。

しかし、多少の差はあれ、ゾウはゾウだった。体はずんぐりと太り、耳は大きなうちわで、鼻は長いのだ。ゾウを見て、キリンを描く人はいない。運勢は占い師の判断によって導き出されるものだとしても、なんらかの一貫性があっていいはずではないかと思う。

前置きが長くなってしまった。とにかく、占いってものにそんなに興味はなかったんだよ、というようなことをいいたかったのである。あえて強調するにはわけがある。そんなわたしが予言に翻弄されてしまったからだ。

わたしは7月を待っていた。2001年の7月。細かくいえば、2001年7月5日からの4日間である。

98年の末にわたしはある占い師に会った。知り合いの紹介である。とてもいい占い師がいるというので、ちょっと会ってみてもいいかなと思った。後にも先にも、お金を払って占いをしてもらうのはこの一度きりだろう。

とても良い占い師と紹介された人は、わたしと同年代の女性だった。顔立ちもきれいで、品の良い奥様という感じ。白太太のようなばあさんのほうが雰囲気があったのになぁと思ったりする。場所は、三田駅の近くにある喫茶店ルノワール。スーツ姿の営業マンがスポニチを広げたり、週刊朝日をめくって時間をつぶしているなかで、占い師は2枚の紙を差し出した。

大きな四重の円、中心からのびる線が円を12分割し、そのなかにおかしな記号や数字がちらばっている。もう一枚の紙には、今朝6時に採決した血液検査の結果とでもいうように不可解なアルファベットと数字がびっしり並んでいる。

これがわたしの生まれたときの宇宙の様子だという。事前に教えた生年月日、生まれた場所をもとに作ったホロスコープ。シロウトのわたしが見たってなにがなんだかわからない。

「あなたがこの世に生まれた瞬間の星の位置です。生まれたときに宇宙の星たちがどのような位置にあったかで、あなたの運勢がすべてわかるのです」

それがどうした。この紙に書いてあるのは、星の位置を2次元で再現したものだ。宇宙はすくなくとも3次元である。空間、奥行きというものが無視されている。そこからしてなにかがちがう。でもそんなことはいってはいけないので、わたしは「ふんふん」とうなずきながら黙って話を聞いていた。

しょっぱなから占い師は顔をしかめながらこういった。

「2000年3月からあなたの運勢は最悪の時期に入ります。数々の不幸が押し寄せます」「3月ですか?」「はい。でもその不幸はあくまでも『序章』にしか過ぎません。始まりです」

それから彼女は、なかでも気をつけなくてはならない最悪の時期をいった。2000年○月○日から○日まで、というふうに。それはけっこう長く続き、いちおうわたしはメモを取った。

気になるのは彼女が2000年から占い始めたことである。会ったのは98年の末。普通は翌年の占いから話をするものではないだろうか。

「ところで来年、1999年はどうなっているんでしょうか」「・・・。まぁ、世紀末ということでどなたもあまり良くない運勢になるかと思います」

つまり、1999年も良くない、のだろう。

「で、その最悪の運勢ですが、どういう不幸がやってくるんでしょうか」

「ありとあらゆるものです。病気、災難、身内の不幸、業績不振、恋愛関係、すべてにおいてよくない結果を招くでしょう。何度もいうようですが、3月はあくまでも『序章』です。それから先、不運は長く続きます」

これほど念を押すのだから、よっぽどひどい運勢が出てるんだろうなと彼女の雰囲気から伝わってきた。占いを信じないといっていたにもかかわらず、「それがどうした」とはもういえないのだ。だんだん不安になってくる。腹さえたってくる。自分はそれほどブスだとは思っていないのに、「いいえ、あなたは完璧なブスです」と力強く何度もいいきかされているような気分だ。しかも百回ぐらい。

この占い師が本当によくあたるのかどうかはわからないが、人をその気にさせるという点ではかなりの技術を持っていたと思う。彼女の口から出る言葉にわたしはすっかり取り憑かれていた。オヤジたちのあふれるルノワールであったにもかかわらず。

「あ、この記号はなんでしょうか。これは時期に関係ないですよね。どういう意味なんですか」

たまたま悪い時期に占いをしてしまったのだ。なにひとついいことは出てこない。占い師はわたしの不幸ばかりを語る。近未来の運勢が良くないというのであれば、時期を限定せずに全体的なわたしの人生について聞いてみればよいのだ。気分を変えてみよう。救いを求めるように、円の外に書いてある血液検査の記号と数字を指さす。

「あ、それですね。それは、『あなたは人生のなかでとても大切なものを失う』という意味です。この記号は、『お金』か『愛情』ですね」

「つまりわたしは、そのうち、いつか、きっと、お金、あるいは愛情を失うということでしょうか」

「そうです」

きっぱりといいきる。すがすがしいほど、はっきりと断定する。救いはなかった。お金か愛情。究極の選択である。なんだかもうこれ以上聞くのはイヤになってしまった。わざわざ三田まで来て、ルノワールで、なんでこんな話ばかり聞かされなくてはいけないのだろう。

「気を落とさないでください。悪いときは誰にでもあるんです」

そんなことはわかっている。誰にでもいい時と悪い時がある。それは当然のことなのだ。でも、「お金」か「愛情」を失う人はそうそう多くはないような気がする。それを聞かされて平然としていられる人もそんなに多くはないと思う。

「大丈夫です。この不幸もそう長くは続きません。2001年の4月に厳しい運から抜け出します」

前にも書いたように、占いをしてもらったのは98年の末である。厳しい運を脱出する2001年4月まで、2年と半年近くもある。長くは続かないだって? 2年と半年だぞ、じゅうぶん長いよ、長すぎる。そのときのわたしは、2年と半年先のことなんて想像もできなかった。ノストラダムスの予言だってあったし、2000年が来るのかどうかだってわからなかった。

いまだって同じだ。いまから2年と半年、2004年の1月までを「そう長くない」といえる人なんているだろうか。

「2001年の4月に厳しい運を抜け、そのあと6月後半から運気は一気にあがります。7月5日から4日間、もっともいい運気ですね。このときに、そう、あなたは電撃結婚をします」

ここでわたしはちょっと気がほぐれた。電撃結婚だって、ばっかみたい。兄妹ふたりで手相をみてもらったら、「ふたりはいつか結婚します」といわれたのに似ている。やっぱり占いなんていい加減なんだ。

「申し訳ないですが、それはハズレです。だって、わたしもう結婚していますから。はっはっは。電撃結婚はあり得ないですね」

占いばばあ(品のよい女性がだんだんばばあに見えてきた)は、恐ろしいことを口にした。

「うーん、でも電撃結婚なんですよ。運命の人に出会うとでていますから。それに、ご主人の生年月日からも調べてみましたが、おふたりはあまりいいご縁ではないですよね。あなた、ご主人のこと好きですか? ご主人もあまりあなたのことを愛してはいらっしゃらないと星はいっています」

「星はいっています」と付け加えられるから、こんな失礼なことを平気でいえるんだろうなぁと思う。「別にわたしがそう思ってるんじゃなくて、星が、宇宙が、そういってるんですもの」。まぁ、たしかにそのとおりなのだろうけれど、今日初めて会った人にそんなことをいわれるのはあまりいい気持ちがしませんね。

占いの時間は1時間である。1時間でいくら、という時給なのだ。これから2年と半年は不幸続きで、いつか「お金」または「愛情」を失うと呪いをかけられ(予言というよりは呪いに近い)、夫に愛されていないといわれても、お金を払うのである。気にいらなかったら一週間以内なら返却できる通信販売とはちがうのだ。

友だちは「占いはいいところだけ信じればいいんだよ」となぐさめてくれた。が、いいことがなにひとつなかった場合は、けっこうツラい。気にしないでおこうと心がけていても、頭のどこかに「いつかお金か愛情を失う」という言葉が呪いのようにこびりついている。

そして、わたしは7月を待っていた。7月5日から始まる4日間を待った。誰かに出会うというのなら、出会ってみるのもいいだろう。もしかしたら、大金持ちのハンサムな男と再婚するのかもしれない。それもまたラッキーである。女なら誰だって、いつかすてきな王子様が自分をさらっていってくれる、というような夢をひそかに抱いているものなのだ。ちょっとぐらいは期待してもいいんじゃないかと思う。

しかし、そのときが近づくにつれ、王子様はどうでもいいような気がしてきた。その運命の人が夫であったらいいなと思うようになった。のろけている、と笑われるかもしれないけれど、本当にそう願うようになった。知らない誰かと巡り会うのも素敵なことである。でも、一番身近にいる古ぼけた亭主が実は運命の人でした、ここであらたに再確認するのです、というオチもなかなか良いような気がする。それにこの年になって、また新たな人とやりなおすのも面倒といえば面倒である。

さて、話を最初に戻そう。『蒼穹の昴』の春児だ。お告げを受けた貧しい糞拾いの少年は、なみなみならぬ努力と運命の導きによって大出世をする。宦官になり、西太后にたいそう気に入られる。

読んでいるほうとしては、ある種の安心感がある。春児がどこかでつまずいても「いやいや大丈夫、キミにはあのお告げがある。昴の守護星がついている」とお告げどおりにすすむことを予感しながら読んでいる。そういう運命なんだもん、成功してあたりまえじゃん。

しかし、話の途中で意外なドンデン返しをくらうことになる。白太太が語ったあの予言は、嘘だったという。ばあさんの作り話だったのだ。貧しい春児には未来なんてなかった。予言しようにも少年の未来は真っ白で、飢えと貧しさで死ぬことだけがわかっていた。

だから嘘をついた。明日の命も見えぬ少年に希望を与えるために、嘘の予言をしたのだ。春児も「そんなことはわかっていた」という。食べ物はいっとき腹を満たすだけ。でも白太太はおいらに希望をくれたんだ。ずっと生きていける夢をくれたんだ。

少年はみずからの力で運命を変えた。飢えて死んでゆく運命を変えた。予言を信じることによって、人間の力で運命を超えた。


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■井上以知子のひとくちコラム

●不幸を受け持つからだ
喪があける(運気の喪)2001年の4月までの間、とくに「うーん、不幸だ」と実感する事件はなにもなかった。悪いこともなかったかわりに、いいこともとりたててなかった。低いところで静かに暮らしていたように思う。

ただ、「ここがとくに悪い時期」といわれてメモをした期間は、いつも体調が悪かった。エッセイを書くために98年の手帳を開いて、それを発見した。ひどい風邪、肺炎、粉瘤、二度目の粉瘤のころは、悪いといわれていた時期とぴったり重なる。からだがすべての不幸を背負ってくれたようである。


●いまのところ
王子様はあらわれていない。あと4日間のうちに突然バッタリどこかで出会って電撃結婚する、というのも不可能であろう。とりあえず、お金と愛情も無事である。


●ニセドコモ
ここのところ、携帯電話にあやしげなメールがいっぱい届く。一度来るようになると毎日続く。それがなんというか、姑息な手を使っているのだ。

アドレスは「info@docomo」で、タイトルが「緊急告知」となっているので、なんの情報かとつい読んでしまう。内容は出会い系サイトへのお誘い。どういうことなんだとじっとメールを見ると、「docomo」ではなく「dokomo」になっている。

受け取り拒否を考えてか、毎日ちがうアドレスでメールが来る。「dokumo」「documo」「cocomo」。

もっとずるいのは、間違いメールを装ったものである。「あゆでーす。このアドレスでいいんだよね? こないだいっていたサイトはココだよ(URLが書かれている)。ホントにいいかどうか、ちょっと見てきてくれるー?」てな感じである。

良心的な人は「あゆさん、アドレスまちがってますよ」とか返信しちゃうんだろうなぁ。とりあえずサイトは見てあげよう、とか訪問しちゃうんだろうなぁ。

わたしの携帯電話のメールアドレスを知っているのは夫と、レンタルサーバを貸してもらっている知人だけである。そこから漏れたという可能性はゼロだ。ばれたものはしかたがない。携帯のメールアドレスを変更すればいいだけである。今度のは見つかりにくいアドレスだぞ。むふふん。


●夏期休暇のお知らせ
17日から26日まで休暇を取ります。ギリシャ、エジプト、イタリア、メキシコ、などなど夢は広がり、インターネット予約でボタンを押すところまでは行ったが、結局ボタンを押したのは北海道行きの往復チケット(笑)。休暇までに仕事を終わらせるべく、毎日労働しておりますです。PBは持っていくので、メールチェックはできます。

兄が札幌ドームで行われるオールスター戦のチケットを手にいれてくれたらしく、わたしも同行することになった。野球なんて、ずっと前に西武球場の外野席でイチローの後ろ姿を見ただけ。どういう選手が活躍しているのかも知らない。しばらく野球ニュースをチェックしよう。え?淡口ってもうやめたの?ホワイトもいない?って、いつの話だよ、それ。

by ichiko : カテゴリー:エッセイマガジン

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