2001年02月01日

シンプルな衝動

「ふぬけをジャマするようで申し訳ないですけど、あの事件、イノウエなら絶対なにかひとことあると思って」

と、ある知人から電話がくる。

「あの事件って、どの事件すか?」「あれに決まってるじゃないですか。『勇気ある死』ですよ」「あ、あれか。いんじゃないの、勇気あるでしょう。それのどこに文句つけるのよ。別にわたしゃ異論ないけど」

電話をくれた彼はあきらかに脱力し、ふぅっと大きなため息なんかついてから、「それはガッカリしました」と妙にキッパリとした声で言い放つのだ。

「ぼくは、猛烈に腹が立ってます。なんか、ちがうでしょう。どっか、間違ってませんか。絶対イノウエも同じこと考えてると思って電話したのになぁ。まぁ、ふぬけの人になにをいっても無駄かぁ」などという。

むっ。むむむっ。自分でふぬけ宣言しておきながら勝手ないいぶんかもしれないが、他人からそう何度もふぬけ呼ばわりされるのは結構しゃくにさわるものである。ふぬけは、自分でいいふらしているうちが花。他人にズバリ指摘されたのでは、正真正銘のバカ、誰が見ても無気力オンナ、疑いようのないノータリンということではないか。

だいいち、この一週間でわたしはカナリふぬけから脱出したんだ。完全復帰とまではいかないが、68%は復活している。なんでそんなハンパな数字なのかは、またそのうち説明するとして。とにかく、臓物がひとつふたつと戻りつつあるわたしに、「ふぬけの人になにをいっても無駄か」とは聞き捨てならないせりふなのだ。

「わかった。それについては、1時間後にメールで回答する。待っておれ~」

先週の金曜の夜、JR山手線新大久保駅のホームでその事件は起きた。ホームから線路に転落した男性を助けるために、別の男性2人が線路に飛び降り、3人とも電車にひかれて死亡した。テレビのニュースで第一報を知り、「ああっ」という絶望的なため息がもれた。悲劇だ。助けようとして線路に降りた2人まで死んでしまうなんて。翌日の新聞には、2人の男性は、ホームに転落した男性とは見ず知らずの他人だとあった。ただホームに居合わせただけの人たち。彼らの勇気と無念を思うと、なんともいえない気持ちになった。

電話をしてきた彼は、いったいなにに腹を立てているのだろう。

「『勇気ある行動』としていろいろなところで大きく取り上げられているけれど、果たして本当にそうでしょうか? ぼくは、あれは『勇気ある行動』ではなく、『無謀な行動』にしか思えないんです。何でも美談にすればいいというものではないでしょ?」

彼は、「時事ネタ友だち」である。オヤジネタ、ではない。友だちというほど親しくもなく、ただの知人というのともちょっとちがう。仕事がらみで知り合い、一緒に仕事をしなくなったいまもつきあいが続いているのは、お互いに時事ネタに対する姿勢が近いからだと思う。

肩肘を張って社会問題を語るような窮屈さがない。ただ普通の、一般人のひとりとして、いま社会で起きていることに目を向けていたい。そして、それを誰かと語り合いたい。

同じテレビ報道や記事を目にしていても、まったく別の観点から事件を眺めていたり、想像もしなかった受け止めかたをしていたりする。でも、なぜか「怒り」のポイントは似通っているのだ。怒りの対象となるものが同じなのだろう。その彼が、「腹を立てている」というのだから、これはもっと突き詰めてみる必要があると思った。

助けようとしてホームに飛び降りてから、2人が電車にはねられるまでの時間は5秒だったという。その5秒、2人にはどういう時間だったのだろう。ホームに落ちた男性は、かなり酔っていた。電車の音が迫る。酔った男性を引きずりながら生き延びようとした5秒は、永遠の長さに思えたかもしれない。あるいは、あっという間だったのか。

線路に降りたとき、電車との距離は、7、80メートル。これは、思っていた以上の近さだ。たしか、電信柱は25メートル間隔で立てられているはずなので、電信柱3本分の距離ということになる。外に出て、国道に立ってみる。

電信柱3本向こうを見ると、やはり近い。あのあたりに電車が来ていたとイメージしてみる。でも、うまくイメージできない。車ならわかるのに。

そう、車ならイメージできるのだ。交差点に入り、右折のタイミングをはかっているときに、対向車をじっくり見ている。車の位置、スピードを見ながら、経験的に「いまなら、右折できる」と判断する。

見慣れない大きなダンプや、オートバイが来ると、その距離感が狂うときがある。ダンプがやってくるまでやけに時間があったり、「いまなら行ける」と思ったとたんオートバイがすぐそこまで来ていたりしてひやっとさせられるのだ。大きさがちがうから、遠近感がうまくつかめない。

日常的に車を運転していてもそういうミスを犯すのに、電車だったらどうだろう。ホームで電車を待っているときに、走ってくる電車をのぞき込んでじっくり見たことなんてない。見ていたとしても、ぼおっと「ああ、電車が来た」というぐらいだ。その距離やスピードから何かを判断できるほど、経験がない。電信柱3本分の距離、なんて書いても、なんの役にも立たない。

「無謀な行動」と言い切ってしまうのは、どうかなと思う。人間は、基本的に自分を生かす、生存させようとする本能を持っている。明らかにこれは無駄死にになる、相手も救えないし自分も死ぬんだと判断したら、助けようという行動は起こさないはずである。

酔った男性が線路に落ちてから、2人が飛び降りるまでどれくらいの時間があったのか。ほんの一瞬だったろうと思う。安全かどうか、助けるべきかどうか。

とっさに飛び降りたのは、「救える」と思ったからではないだろうか。ホームに近づく電車を見ながらも、これは救えると直感したから線路に降りたのだと思う。だいじょうぶ、なんとかなる。降りて、男性を引きずってホーム下に逃げ込めばいい。

だけど、ホームの下には逃げ込む空間がなかった。この出来事で最も悲惨だったのは、逃げる場所がどこにもなかったことだ。

「イノウエのいってることも、よくわかります。もちろん2人を責めるつもりはないですが、判断して行動して失敗したからこそ、ぼくはまずいと思います。その危険性を横にどけて、ただ賞賛しているだけのメディアには納得できないんですよ」

結果だけを見るなら、彼のいうとおり「無謀な行動」だったということもできるだろう。助けようとした2人まで命を落としてしまった。メディアは「惨事」「悲劇」という単語から、「勇気」や「希望」「善意」と前向きな表現に変えていった。死と隣あわせの危険な行為を、まさしくその死によって美談としてばかりとらえたがるメディアに腹を立てる彼の気持ちもわかる。

でも、メディアが報道していることは、2人の意志にはなんの関係もないことなのだ。彼らは、単に人の命を救おうとしただけだ。いま、危険にさらされている目の前のひとつの命を見過ごすことはできなかったのだ。ほんのわずかな時間に2人は、ただ「人の命を救う」ことを選んだ。それが真実である。

わたしだったら、恐怖と驚きで身がすくんで、動くことすらできないだろう。酔っぱらいなんて、どうでもいいと思うかもしれない。よその国の人を助ける気持ちにはなれなかったかもしれない。

わずかな時間しか与えられなかったことで、2人の本質を見たような気がする。とっさのときに何の迷いもなく救いの手を差し出せる人と、何もできずに終わる人がいる。その差は、いったいどこにあるのだろう。

もし、2人が線路に飛び降りなかったら。ふたつの命は消えずにすんだ。

でも、2人が線路に飛び降りなかったら。ひとつの命が救われる可能性は永遠にゼロのままだ。


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■近 況
◎フリーで働く身にとっては、ボーナスのようなもの
来週は確定申告がある。地域ごとに日程が決まっていて、税務署員がどさ回りのように各地の公民館をまわって歩く。毎年、申告書類を作成するのにまる2日はかかる。200枚以上はある領収書を整理し、ひたすらデータベースに入力。必要経費を項目ごとに集計し、償却資産や医療控除の計算もある。クライアントから送られた支払い調書を集め、売り上げと差し引きされた税金を計算。一年のうちで、コンピュータのありがたさを最も実感するときかも。手計算なんかしていたら、何日かかるかわからない。申告書に数字を書き込んでいくと、還付される金額がわかる。2日間の苦労が報われる一瞬である。

◎老人性
ここ数年、秋から冬にかけて体中がかゆくなる。顔や腕、足のすね、背中などあちこちがカサカサになり、皮がむける。ひどいときには、ぶつぶつの湿疹までできる。とにかくかゆくてたまらん。知り合いのお医者さんに相談すると、「それは老人性乾皮症ですね」という。ろ、老人性? 「男性は40代から、女性は30才代より、冬場などの低気温時には皮膚の脂の分泌が不活発になり、皮膚表面の脂が減少します。皮膚が粗くなり、点状や魚のうろこ状にきめの荒い状態に陥りやすくなります。このような状態を老人性乾皮症とよびます」。老人かぁ。なんか、ショック~。

by ichiko : カテゴリー:エッセイマガジン

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