2001年01月25日

そして、イノウエはふぬけになった

ふぬけになった。新しい世紀に入って、世間は前へ前へと向かっているときに、こんなしみったれた話は情けないけれど、わたしはふぬけになってしまった。からだも頭も緩みきっている。

ふぬけは、臓物を抜き取られた状態である。はらわたがないのだ。「はらわたが煮えくり返る」ような激しい怒りにももはや無縁。「はらわたがちぎれる」悲しみも感じない。誰かに「はらのうちを探られる」心配もないし、「はらを据える」ような覚悟もできなくなった。

わたしの体は、芯が抜け落ちたように、ふにゃふにゃである。かろうじて残っている脳ミソも、のびきったゴムのようにだらけている。思考しようとしない。集中できない。

ふにゃふにゃの生活も、なかなかいいものである。日々は、安穏として平和。ぼおっとしているうちに時間は過ぎていき、難しいことを考えずとも世界は回っていくものなのだ。

ふぬけの原因は、夫にある。いや、こういういいかたは誤解を生むのでよくない。これではなにもかも夫のせいではないか。もちろん、すべてはわたし自身の問題であることにまちがいはないのだが、きっかけになったのはやはり夫であろう、という意味である。

今年から、夫はフリーになった。会社を辞めて、フリーランスとして仕事をするようになったのである。キャメラマンという仕事をしているので、撮影や打ち合わせで出かける以外は、家にいる。

わたしのほうは、ずいぶん前から自宅で仕事をするSOHOワーカーである。コンピュータと周辺機器、本棚などが並ぶ仕事部屋を持っている。それほど大儲けはしていないが本職として成り立つぐらいはそこそこ稼いでいる。

家は働く場所、オフィスでもあるから、一日のほとんどの時間を家のなかで過ごすことが多い。その生活に、夫が加わる。これからは彼も自宅の一室をオフィスにするという。これは、ちょっと困ったことになったなぁというのが正直な気持ちだった。

長いことひとりで仕事をしてきたので、自分なりのやりかたができあがっている。仕事と家事をうまく両立させるための、一日の生活ペースだ。仕事に専念したい時間帯があり、買い物に出かける時間、家事の手順などにもこだわりがある。わたしなりの快適な一日の進めかた、というものがあるのだ。

それはわたしだけにかぎらないだろう。仕事をしていようが、専業主婦だろうが、同じように自分なりの一日のペースを持っている。夫が出勤し、帰宅するまでの時間をどのように過ごすか、家にいる女たちはそれぞれ自分にあった方法を持っているのである。

そこに夫が入ってくる。ひとがひとり増えるのだから、いままでどおりというわけにはいかなくなる。わたしだけのやりかたを押し通すのは、やはり無理なのだ。

慣れ親しんだ快適な生活を乱されて、どんどん調子が狂っていった。家事と仕事の境目がはっきりしなくなった。自分の時間が減っていくような気がした。プリンターを使いたいとか、カッターを貸してくれと夫が仕事部屋に来るたびに、思考を中断される。集中力が散漫になった。

数日たったころ、夫が「ぼくが家にいると邪魔なんでしょう?」と聞く。そんなことを言った覚えはないが、たぶんわたしのからだじゅうから「邪魔だー」という迷惑光線が放たれていたのだろう。

ちょっと反省した。これからフリーになって頑張ろうという彼に、それは申し訳ないことをしてしまった。こんな身勝手な妻を持った夫が気の毒に思えたので、買い物に誘ってやった。仕事も残っているし、サッサとひとりで出かけて、てきぱき済ませたいところだが、今日は気晴らしに夫も連れて行ってやろう。

その日は、ちょっと遠出をした。平日は、いつも市内のスーパーで買い物をするのだが、夫もいることだし気分転換の意味もあるので、遠くのデパートまで出かけてみたのだ。

天気も良くて、ドライブをしているだけでも気持ちのいい日だった。デパートではバーゲンセールをしていたので、洋服をいくつか買った。昼食はイタリアンレストランに行った。ひとりのときは、外でお昼を食べたことなんてなかった。いつも家で残りもののおかずで簡単にすませていたのだ。

ほかのデパートに寄ったり、本屋で本を眺めたりして、家に着いたのは夕方だった。ちょっと買い出しに行ったつもりが、まる一日遊んでしまった。まぁ、こんな日があってもいいだろう。

翌日も、わたしは夫を買い物に誘った。オフィス用のラックを探したいという彼につきあってホームセンターに行き、ペットショップで猫を眺め、お昼には天丼を食べた。あちこち寄り道をしていたら、あっという間に夕方になった。

このころから、わたしのふぬけ状態はスタートしていたのである。

わたしたちはその次の日も出かけた。出かけるたびになにかしら買い物をし、昼ごはんを食べ、帰ってくるのは暗くなってからだ。とんでもないフリー夫婦である。こんな生活を続けていれば、いつか我が家の経済は破綻する。財布は空になってしまうだろう。

それでもしばらく続けていたかった。楽しかったのだ。夫と遊び回るのが楽しかった。考えてみれば、ここ数年、お正月をのぞいて夫はまとまった休みを取ったことがなかった。半年間、一日も休めなかったこともある。夏休みなんて、もう何年おあずけだろう。

ただ買い物をして、昼ごはんを食べ、本屋で立ち読みをしてぶらぶらする。それだけのことなのに、なんだかどこかに旅行でもしているみたいな楽しさがあった。

家に帰ったらふたりで夕食を作り、夜はビデオを見て過ごす。楽しい時間に身をまかせて、ただ笑っていれば一日が過ぎていった。ときおり押し寄せる不安な影も、横にいる夫の手に触れればすぐに姿を消した。穏やかで平和な日々。それがなんの前兆なのか、わたしにはわかっていた。

誰かとずっと一緒にいると、わたしは考える力を失ってしまう。考えるという行為そのものを放棄してしまうといったほうが正しいかもしれない。

相手との結びつきが深ければ深いほど、他人と自分の境界線が曖昧になる。どこまでが彼の人生で、どこからがわたしの人生なのか、境目があやふやになる。

相手の思考がわたしのなかに流れ込み、わたしの思考が彼に向かって漏れていく。外の世界を切り離す境界線をみつけられない。彼を遮断しないと、わたしは思考できないのだ。

考えるというのは、意思をともなった能動的な作業だ。外からの世界を遮断して、自分を孤立させるところから考えるという行為は始まる。外界から隔てられたところで、ひとりきりで自分の心の奥底と向き合わなくてはならない、孤独な作業でもある。わたしは考えることを捨てていた。ひとりきりの時間を持とうとしなかった。外の世界を切り離そうとしなかった。自分と向き合うよりも、誰かといつもつながっているほうを選んだ。

そっちのほうがラクだった。時間も思考も人生も、あらゆるものを共有していると、ふたりでひとつ、そういう錯覚に陥った。彼がいれば安心でき、いないと不安になった。つまり、依存していた。

相手との境界線があやふやになり、自分のからだの一部のように依存する。もはや、わたしは「個」として存在できなくなっていた。わたしという人格が揺らぎはじめているのだ。

自我も薄くなる。自分というものが急激に薄まっていき、自己欲求のレベルがものすごく低くなった。なにも主張しない、なにも望まない。志も野望も情熱も、どこかに消えていった。政治も医療ミスも成人式の若者も、どうでもよかった。社会に対して何も感じなくなった。

ふぬけである。はらわたがなくなり、脳ミソも回転しなくなり、牙は抜け落ちた。そして、わたしが何も考えなくても時は流れていくのだ。流れていってしまうのだ。


───────────
■近 況
◎いつまで?
マイ・スタンダードである編集者にこのエッセイを読んでもらった。彼はなぜだか喜んでいる。「やぁ、大変けっこう。こういうときがあってもいいんじゃないですか」。彼は牙のないわたしのほうが好きらしい。「心配しなくても大丈夫。ふぬけはそう長くは続きませんよ」ともいう。「いつまでも続いたら? それはそれで最高じゃないですか(笑)」。そういうと思っていた。

by ichiko : カテゴリー:エッセイマガジン

made by XHTML, CSS, Movable Type.
© Go Go ichiko. All Rights Reserved.