2000年11月14日

カワイソウな猫

「かわいそう」という名の猫がいる。栗林の奥の家で生まれたその白黒ぶち猫は、ちょうど1歳になる。飼い主はすでに「あるじ」としての権利と義務を放棄しているようなので、99%は野良生活だ。

こんな山奥で、飼い猫から野良へ転身するというのは、けっこう厳しいサバイバル状況なんじゃないかと思う。ゴミ管理がしっかりしているので、残飯にありつく可能性はほとんどゼロだ。街なかの野良のように、お店の裏のゴミ箱をあさったり、誰かが捨てていったお菓子をひろうこともできない。住人も気安くエサを与えたりしない。

食料を調達するには狩りしかないわけだが、それもうまくいっているのかどうか、よく裏の畑で「かわいそう」がきゅうりやなすをかじっている現場が目撃されている。「かわいそう」は菜食主義、のはずはないので、やむにやまれぬ事情でかじっているのだろう。

「かわいそう」というのは、本当の名前ではない。猫にそんなヘンな名前をつける飼い主はいない、と思う。でも、近所のみんなもわたしも、誰も猫の本名を知らない。名前さえつけてもらっていないのかもしれない。

我が家にも、2年前から猫がいる。動物を飼うのははじめてだったので、名前をつけるのに3日間も考えた。悩んだすえに、ようやくそれらしき名前は決まったものの、ペット初心者のわたしにはひとつの疑問が残った。

「猫は、どうやってそれが自分の名前だってわかるのよ」

夫は、「なんで、そんなことを聞くんだ?」という顔をしながらも、いちおう説明してくれた。「みんなで猫に向かって名前を呼んでやるからさ。何度も呼ばれているうちに、それが自分の名前だってわかるんだよ」。でも相手はたかが猫だよ、口もきけないし、おつかいにだって行けないんだよ、そんなヤツに自分の名前を認識できるとは思えないなぁ。

わたしは動物をなめていた。やがて猫は名前を呼ぶと振り向くようになり、「あい」と返事をするようになり、ぬくぬくしたベッドから這い出て「気持ちよく寝ているのにさぁ、いったい何の用事があるわけ?」と、さも迷惑そうに文句までいうようになった。

みんなが呼ぶと、猫にとってはそれが自分の名前なのだ。

99%野良のあいつは、自分の名前は「かわいそう」だと信じこんでいるにちがいない、とわたしは思う。

「こいつ、またウチの前で物乞いしているよ、かわいそうだよ」「こんなひどい雨降りなのに、かわいそうよ。あんなに濡れて、冷たいでしょうに」「まぁ、かわいそう。こんなに薄汚れて、痩せ細っちゃって」「泥のついた足で車の上に乗るから、猫スタンプだらけじゃないのよっ。かわいそうだとは思うけれど、これじゃたまったもんじゃないわっ」

試しに、「かわいそう」を「ミケ」とか「タマ」に入れ替えても、ちゃんとそれなりに文章として成り立つ。飼い主の家から放り出され、ごはんももらえず、近所をうろつきまわり、ときには畑で盗みをはたらき、車のボンネットに足跡をつけまわっているこの猫は、同情や哀れみ、そしてほんの少しの怒りを買いながら、「かわいそう」を連発されている。

だけど、わたしは一度もあいつをかわいそうだと思ったことがない。

たとえば雨降り。雨に濡れたくないなら、車庫や納屋のなか、濡れずにすむ場所はそのへんにいくらだってある。それでも雨のなかを歩いているのは、あいつなりの事情があってのことなんだろう。どこかに急ぐ用事があるのか、雨に濡れたかったからなのか、それはわからない。

あいつにとって現実はかなり厳しくて、危うい日々が続いているのかもしれず、まぁ大変だろうなぁとは思うけれど、「かわいそう」とはいいたくないのだ。毎日タフに生きているあいつに、それはちょっと失礼だな、という気がするのである。

よその猫にもかかわらず、実はこっそり名前だってつけてある。「がにまたのクロ子ちゃん」だ。クロ子ちゃんというからには、メスである。

クロ子は、とっても目がいい。どこで見ているのか、わたしが玄関のドアをあけて外に出ると、遠くから猛ダッシュで駆けてくる。ジャリ道をすっ飛ぶように走ってくるときもあれば、栗林の茂みのなかにぴょんぴょんとびはねる黒い点があり、なんだろうと思って見ているとクロ子だったりする。

そんな勢いでやってこられると、わたしもちょっとうれしくなり、「じゃあ河原に散歩でも行こうかね」ということになる。クロ子は、散歩好きでもあるのだ。

河原までの道、クロ子は実にうれしそうに散歩をする。わたしのまわりをぐるぐるまわり、ちょっと先に走ってはまた戻り、ぐるぐる。そのあいだにも、顔を見上げては「なぁ、なぁ」と話しかけるので、「そうだね、今日はちょっと寒いかもね」とわたしも答える。

ときどきクロ子は、歩いている足もとでぼてっと仰向けになりごろごろをはじめる。「ぼてっ」は突然やってくるので、いままで何度もクロ子を踏みつぶしそうになったり、そのままつんのめって転びそうになった。「待て、待て。河原まで待て」といって立たせると、跳ねるように歩くクロ子の後ろ足は、ちょっとがにまたなのだ。

河原でひとしきり遊んで、家へ戻ってくると、ベランダの窓にはりつくように猫が2匹ならんでいる。我が家の猫が息をひそめて、じっとこちらの様子をうかがっている。

家の前まで来ても、クロ子ちゃんはどことなく離れがたい様子で、もじもじとして立っているが、「はい、ここでさよならね、またね」ときっぱりいうと、あきらめる。とぼとぼと栗林のなかに消えていき、がにまたの後ろ姿をわたしは見送る。

部屋に入ると、飼い猫2匹は見るからに不機嫌で、「いったい、外で何をしていたのよ。あいつはなんなのよ。ねぇねぇ」と迫ってくる。「はいはい、わかった。でもさ、アンタたちは、いつも居心地のいいベッドで寝て、おなかいっぱい食べて、安心して暮らせるんだから、ちょっとわたしが外の猫と遊んだぐらいで、すねちゃいけないよ」

ガラス一枚の差、とわたしは思う。ベランダの窓一枚の差で、むこうとこちら、猫の生活はこうもちがうのだ。

でも、本当は飼い猫2匹は「あたしたちだって、外に行きたいもん。あいつがうらやましいよぅ」といってるのかもしれない。天気の良い朝、窓辺にすわって、じっと飼い猫は外を眺めている。その目線の先にはクロ子ちゃんがいる。栗の木によじのぼり、鳥を追いかけ、原っぱをかけまわるクロ子ちゃんの姿がある。

野良のクロ子ちゃんが「かわいそう」で、飼い猫が「しあわせ」と決めつけるのは、ちょっと安易だなぁと思う。それは人間がそう思いこみたいだけなのかもしれないし、物事をひとつの面からしかとらえていない証拠のような気もするからだ。

現状に満足しているかどうかは、猫自身に聞いてみないとわからない。猫にしたって、それぞれ言い分があるはずだ。「今は野良をやっているけれど、実はひそかに飼い猫への憧れは持ち続けている」という飼い猫願望の野良もいるだろうし、「飼われるのなんか、もうまっぴらだよ。野良はきつい生活だけど、自由でのびのび暮らせるのがオレには一番なのさ」というワイルド志向の野良だっていてもいい。

「ぼくは、のんびり毎日寝てくらしたい」という飼い猫は現状維持派で、「あたしは、自分で狩猟して自立して生きていきたいの」と脱走のすきをねらっている飼い猫もいるかもしれない。

野良と飼い猫とふたつにわけて考えることに、そもそも無理がある。どちらに属していようと人それぞれ、というか、猫それぞれなのだ。 個々の考えがあってしかるべき、なのだ。このさい、猫がそこまで深く考えるかどうかは別にして。近所には、猫だけでなく、「かわいそう」な少年というのも存在する。後妻に入った母親の連れ子の彼は小学生で、ひとりでよく河原に立っており、「かわいそうで、さみしそうで、つらそう」なのだそうだ。わたしは会ったことがないので、なんともいえない。

けれど、「かわいそうで、さみしそうで、つらそう」だと判断する根拠は、後妻や連れ子、いつもひとりぽっち、という彼をとりまくわずかな状況のみである。ある一面だけを捉えて、いくつかのキーワードから単純に「かわいそう、さみしそう」へと直結させて物事を見るのは、あまりにも想像力に欠けるのではないかと思う。

もしかしたら、一見さみしそうな雰囲気を漂わせている小学生は、孤独を思いのほか楽しんでいる、という可能性だってある。河原で、ぴちぴちとはねる魚を見るために夕方になるのを待っていたのかもしれないし、心のなかで詩を創っていたのかもしれない。

新しい父親とは実はものすごく仲が良くて、明日一緒に釣りをする約束をしていて、その下見に河原にやってきたのかもしれない。

あるいは、みんながいうように、ものすごくさみしくて、行き場がなくてどうしようもなかったのかもしれない。

そんなことは、誰にもわからない。誰にもわからないから、決めつけてはいけないのだ。

人間には想像力というものが備わっている。同じ立場や境遇に立たされた経験がなくとも、相手の身になっていろいろなふうに物事を眺めることができる。猫になれなくても、ひとりで河原に立つ小学生になったことがなくても、想像する力は持っている。そのためには、想像してみようという気持ちと努力が必要なのだけれども。

この感じからいくと、たぶんわたしは「40近くになっても子供がいなくて、内職までして稼がなくてはならない、実にかわいそうな人」ということになる。ちょっと、いや、かなりショックである。


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■近 況
17日から5日間、ニューヨークに行くつもりだった。でも、いろいろあってとりやめになった。今月の占いの恋愛欄には「17~20日の間にソウル・メイトに出会うかも」とある。もしや、ニューヨークで運命的な出会いをするはずだったのかしら。占いには「だからその時期には家にこもってないで、あちこち外出するべし」ともある。でもさー、コレってヘンじゃん。それが本当に魂の友というなら、山奥にいたって、家から一歩も出なくたって、どこでどんなことをしていてもしっかり会えるはずじゃないのよ。探しに行かなくても、ちゃんと引き合わされる、それが運命的な出会いってもんじゃないのよ。

by ichiko : カテゴリー:エッセイマガジン

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