2000年09月20日

いつかまた逢いましょう

欲しくて欲しくて探し歩いているときには、見つけられない。なのに、探すのもあきらめて、探していたことさえ忘れてぼおっと日々の生活に流されていると、不意打ちのようにどかんと落ちてきたりする。そして、もう探す必要なんかなくて、満たされた暮らしをしているのに、やっぱりどかんと落ちてくる。

それが恋、だと思う。

恋は自分でしようと思ってできるもんじゃない。この人を好きになろうとか、恋をしてみようと思うだけでできる人もいるみたいだけど、わたしにはできない。わたしにとって恋は、自分の意志では操ることのできない外からの力だ。夕陽の美しさに心を震わせるように、素晴らしい映画に感動して涙を流すときのように。心と体がそれに呼応したときに、恋に落ちる。

自分の意志には関係なく、不意に心を揺らすもの。ほとんどの恋は、「もう探す必要なんかなくて、満たされた暮らしをしているとき」に、わたしの前に落ちてきた。

一番最初は、わたしが24歳のときだった。もう満足できる恋を手のなかにひとつ持っていたから、突然やってきた新しい恋にどう対応していいのかわからなかった。あわてふためき、動揺し、舞い上がり、熱病に冒された。

恋の主は、とても頭が良く、ユーモアのセンスがあって、知的な人だった。ほかの友だちと一緒に、彼と会って話をしているだけで楽しかった。わたしの気持ちなんて伝えなくてもいい、大勢のなかのひとりでいい。ときどき顔を見て、話をして、笑う。それだけでよかった。彼とこうして出会えたことに感謝して、生きていこう。想いは心の底に沈める。

なのに、神様はとてもイジワルだった。出会って数ヶ月もしないうちに、彼は転勤するということを聞いた。ひらひらと大きな雪が舞う夜の道を歩きながら、そのとき一緒に住んでいた男を捨ててもいいと思った。

もう会えなくなる。そう思うと明日から生きていけないような気がした。沈めていた想いが堰を切ったようにあふれてくる。とにかく彼にこの気持ちを伝えよう、伝えてみよう、伝えなくちゃならないんだ。それでなきゃ、この恋がかわいそうじゃないか。誰にも知られずに何にもなかったように消えてしまう恋。そんなのあんまりだ。わたしは後先を考えず、完全にせっぱ詰まっていた。

そこまで思い詰めたにもかかわらず、その恋は日の目を見なかった。最後まで気持ちを飲み込んで、彼とは友だちのままさよならをした。

伝えるチャンスは幾度となくあったと思う。いつだっていえた。でも、わたしは何もいわなかった。度胸がなかったとか、きっかけを見つけられなかったからではない。なんとしてでも伝えようとする勢いがあるのと同時に、それを押しとどめようとする強い力を感じてしまったのだ。「今度こそいってしまおう」と意気込んでも、「それは何かがちがう」ともうひとりのわたしは引き留める。だんだん、引き留める力のほうが勝ってくる。そうすると、何もいわずにいるのが今は正しいことなんだと確信するようになる。

たぶん、それが直感というものなんだろう。さよならをしてから一ヶ月後、わたしは偶然にも彼のすぐ近くに引っ越すことになった。あまりにも早い再会をしたわたしと彼は、また友だちとして会うことができた。

それから何年もたたないうちに、また彼はどこかに引っ越して行った。もう心は乱れなかった。告白しようと意気込むこともなくなった。この人とはまた必ずどこかで会えるだろう。あのとき、告白するべきではないと強く心で感じたように、この人はまたわたしの人生のなかに何度もやってくるだろうとはっきり予感したのだ。

出会ってから14年の間、彼は何度も転勤を繰り返してきた。どこかに行き、何年かするとまた戻ってくる。そしてまたどこかに行く。離れているときには何年も会わないし、滅多に電話もしない。でも、戻ってくると、まるで昨日も会っていたように話ができる。ソウル・メイト、魂の仲間というのがあるとすれば、こういう関係をいうのかもしれないと思う。心の奥で、ずっと深いところでなにかが繋がっている、そんな気がしてしかたがない。

30歳を越えたあたりから、同じような出会いをいくつか体験した。ときどき、わけがわからなくなるときがある。 いま、この瞬間に、どうしてこの人と出会ってしまったのか。こんなに心が震えるのはなぜなのか。出会うたびにどうしようもないほど切なくなって、相手めがけて突っ走りたい想いに駆られた。そんなとき、決まってこの彼とのつながりを思い出して、わたしは踏みとどまる。

それを恋にすれば、燃えるような情熱の日々が待っている。全てを捨てる価値はあるのかもしれない。永遠を錯覚する瞬間へと墜ちていく快楽を味わうのもいい。でも、恋はいつか必ず終わる。熱病には必ず終わりが来る。だったら、わたしは永遠のつながりを選択したい。恋をして別れてしまうには、あまりにももったいない男たちなのだ。ずっとずっと心を触れあわせていたい、そんな贅沢を願ってしまうほど特別な人たち。だからわたしは彼らに恋をしない。

近くにいても、年に一度しか会わない人もいる。海外に住んでいる人とはもう4年も会っていない。しょっちゅう電話をするわけでもなく、いま相手がどんな暮らしをしているのかもよくわからない。お互いに別の方向を見て、自分の人生を生きている。そんな付き合いかたがあってもいいんじゃないかと思う。

そして、何かの拍子に心が呼び合って、それぞれの人生を絡ませる。たまたま再会したように見えても、それにはいつもちゃんとした理由があるみたいだ。これから起こる何かのためにお互いを必要としていたり、いまのわたしを助けてくれるためだったり、相手を助けるためだったり。逆にいえば、必要のないときには絶対に会うことができない。会えないようになっているみたいだ。

再会は、自分の成長の度合いを確認するためにもある。淡々とした日々の暮らしのなかにいると、自分が変化していることさえ気がつかないものだ。いま現在のわたしの位置を教えるために、誰かがわたしのためにやってくる。「あ、前のわたしだったらこの人にこんなこといわなかったな」とか、「自分はこんなことを考えていたんだな」と、話をしながら相手を通して自分を確認する。何年かぶりで会う人は、自分を映す鏡になる。

会うたびに、不思議な感覚を味わう。なにがどこでどんなふうに繋がっているのか、その源が魂というものならこの目でしっかり見てみたいとさえ思う。ずっと会わずにいたのに、どうしてこんなに素直になれるんだろう。彼の話す言葉が、こんなにも心の奥底に響くのはなぜなんだろう。相手との間に深いなにかを感じるときほど、それが何なのか知りたくてたまらない。ほんとうは、自分が思うほど意味なんてないのかもしれない。

つい最近、ひさしぶりにせつない出会いをした。静かな始まりだったのに、わたしの心はちゃんと彼を見つけることができた。 でもどうして、いま、この時に、この人となんだろうと、その意味を本気で問いたくなるような出会いだった。人と人が出会うって、こういうことなんだなぁとしみじみ思った。

なんだか急に人恋しさがこみあげてきて、居間のドアを開ける。キッチンに立っていた夫のそばに行き、そっと肩に手をおいた。やんわりしたあたたかさが伝わってくる。ふうぅ、と大きなため息が出た。

「大きいほうだったの?」「?」なんのことだかわからない。また、ふうぅとため息をつく。「あれ、もしかしてお腹ピーピー? 下痢でもしてんの?」ようやくわかった。彼は、わたしがトイレから出てきたと思っているのだ。元気がないのは、お腹の具合のせいだと思っている。急におかしさがこみあげてきた。 「いや、そうじゃないの、ちがうのよ」と答えながら、ゲラゲラと笑った。「なんだよぅ、なにがおかしいんだよぅ」といって、作りたてのエスプレッソをわたしの前にそっと差し出す。香りのいい、濃い目のエスプレッソ。わたしの大好きな味。毎日の生活をともにする人は、こんなときにほんのりとやさしくて、あたたかい。

出会えたのに、また離れてしまう。それが魂の友だちなら、必要なときにまたどこかで必ず巡り会えるはずだ。必ず。だから、別れるときにわたしは心のなかでこっそりこうつぶやく。

いつかまた逢いましょう。

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■近 況
 さっき、車ごとぶっ飛ばされそうになった。丁字路で信号が青になったので右折しようと発信したら、左からどんどん車が来る。あわててブレーキ。なんでこうも堂々と信号無視をするんだ、と怒りに震えていると、交通整理のあんちゃんが血相を変えて走ってくる。信号は工事中でどちらも青になっていたようだ。しっかりしてくれ、あんちゃんよ。もうちょっとで病院行きだったぜ。

by ichiko : カテゴリー:エッセイマガジン

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