2000年09月11日

栗の音

今年の夏は暑かった。猛暑だった。北海道育ちのわたしには、耐えがたいほど苦しい夏だった。弱り切っている身に追い打ちをかけるように、セミが鳴いた。

我が家の前は、栗林だ。とても大きな栗園が広がっている。もちろん、うちの土地ではない。栗の木は、セミにとっては絶好のすみかであるらしく、ものすごい数のセミがいる。姿はあまり見かけないので、いったいどれくらいの数なのかはわからないが、強く主張する鳴き声から想像するとかなりの数だと思う。

ジージージリジリ、これは最もポピュラーなアブラゼミ。ミーンミーンは、いわずと知れたミンミンゼミ。チ、チ、チ、というのはチッチゼミというらしい。ギーギーというハルゼミ、チージーはニイニイゼミで、ときおり聞こえるシャアシャアはクマゼミだったのか・・・。野外学習図鑑なるものを開き、あらためて調べてみるとセミにもいろんな鳴き声があると知る。

わたしはヒグラシの声が好きだ。明け方や夕方に、カナカナカナときれいな声で鳴く。雨が降った後にも鳴くので、はじめは鳥の声かと思っていた。

笑ってしまうのは、ツクツクホウシである。その名のとおり、ツクツクホーシ、ツクツクホーシととぼけた鳴きかたをする。この声が聞こえると、仕事をしていてもつい心のなかで「つくつくほーし、つくつくほー・・・」とつぶやいてしまう。

ツクツクホウシは、ずっと同じように鳴いているわけではない。ツクツクホーシ、と4、5回繰り返してから、まるで息切れでもしたかのように、最後にジジーッと「シメ」の声をあげて鳴きやむ。いかにも、「ああ疲れた」という感じの出ているシメの声だ。そして、しばらく休憩を取り、またツクツクホーシと始まる。ときどき息の長いやつがいて、7回もツクツクホーシを続けているのを聞くと、「こいつ頑張ってるな」などと思う。そういうときは、シメの声にもひときわ疲労感がにじみでる。

いろいろな鳴き声のセミが、それぞれの主張をしながら夏を押し上げる。ジージーもミンミンもカナカナも全部一緒くたになって、鈍い耳鳴りのようにわたしのなかで響き続ける。それがわたしの夏だ。

九月に入ると、セミにかわって、夜の虫たちが賑やかになる。都会に住む友人たちは、「まぁなんてステキ」というが、数が数だけに「ステキ」という度は超えている。

家の前と左側は栗林、後ろは大きな畑。畑にはキャベツやかぼちゃ、茄子、やつがしら、いろんなものがなっている。かろうじて、右どなりはじゃり道一本へだてて、夫の実家が建っている。その向こうは小高い丘。

家を建てるまでは、ここも畑だった。夫の実家に遊びに来るたびに、きゅうりや茄子をもいできてもらったのを覚えている。草や野菜、虫たち、ときにはヘビなども出てくるこの場所は、もともとそういうものたちの住みかだったのだ。

夜を通してひたすら鳴き続ける秋の虫たち。耳の奥に意識を集中すると、重なりあった虫のさざめきからひとつひとつの小さな鳴き声を聞き取れるようになる。

コロコロコロ。ルーリィンリィン。チ、チ、チリリン。フィリリリ、リリ。チッ、チッ、チッ。チリチリ、チリン。広いこの草むらにいったい幾千の虫がひそんでいるのだろう。 これほどまでに賑やかな夜を作り出すために、あのちっちゃな虫がどれぐらい必要なんだろう。夏も終わり、すこしひんやりした夜のなかで、虫の鳴き声に囲まれる。先住者のなかに無理やり割り込んできたわたしたちは、あきらかに侵入者だということを知らされる。

セミは林のなかから大声をあげて主張し、虫たちも草むらからかろやかに存在を主張する。そして、栗も主張する。栗もみんみん鳴く、わけではない。だが、栗にも音がある。存在をしめす、確固たる音を持っている。

虫の音に囲まれながら、ベッドのなかで目を閉じる。とろとろと心地よい眠りがやってくる。ふうぅと眠りに落ちるその一歩手前。がさがさがさ、ぼとっ。あ、落ちたな、と思う。眠りに戻る。うつらうつらとしかけたころ、がさがさ、かーんかーん、ぼてっ。あ、また落ちた。

そう、これが栗の紡ぎ出す音だ。実が熟し、いまが食べごろ、さあどうぞ、と大地の恵みをもたらすその瞬間に、存在の証明として音を出す。栗の生涯で、最初にして最後になるその音には、実にさまざまな種類がある。ぼとっ。これは最もシンプルで芸のない音である。ただ真っ直ぐに落下したのだ。

がさがさがさ、ぼとっ。葉っぱのなかをかきわけて落ちてくるときには、がさがさとにぎやかな音がする。

また、栗はイガごと落ちてくるときと、実だけぽろぽろこぼれてくるときがあるので、それによっても音は異なる。イガが落ちるときは、がさがさという音はまるで誰かが木を揺らしているかのように大袈裟だ。着地のときにも、ぼとっ、どさりと重量感がある。

これに対し、実だけこぼれてくるときの音には軽快感とともにユーモアがある。がさがさ、かーんかーん、ぽとり。途中の「かーんかーん」は木の幹に当たっている音である。

こうなったら、眠気などどこかに吹っ飛んでしまう。寝てなんかいられない。ベッドのなかでじっと横たわり、全身を耳にしてつぎの栗が落ちるのを待つ。もちろん、栗は昼夜問わず落ちている。日中は、ラジオやテレビ、鳥の声、生活の雑音、いろんな音に消されて、栗の音はどこかにまぎれてしまう。しかし、夜は別だ。虫たちの鳴き声しか聞こえない秋の夜は、栗の音はひときわ高く遠くに響きわたるのである。

がさがさがさがさ、ぼとり。ずいぶん上のほうの実が落ちたようだ。高いところから落ちてくるときほど、このがさがさという葉の音は長くなる。いまのは、イガごと落ちたね。

かーんかーん、こきーん、きーん、ぽとり。栗の実も、このときばかりはとあちこちの木の幹や枝を蹴りながら、生涯一度の音を生みだしている。「今のは痛かっただろうなぁ」などとナゼかわたしは頭をさする。まれに、「がきーん」という金属音がまじってびっくりするが、車庫のトタン屋根に向かって落ちた実だ。これもカナリ痛そうである。

栗の木は、大きいものは二階の屋根の高さを越えている。二階のベランダから栗園を眺めると、実りのすごさに圧倒される。見えるのは、ひたすら緑の葉だ。びっしりと一分のすきもなくどこまでも葉っぱである。その緑のなかに、いっそうあざやかな黄緑色の丸いイガが点々と散らばっている。イガは触ると飛び上がるほどに痛い。でも、眺めているだけだと、それは毛糸玉でできた黄緑色のぼんぼりのようにやわらかなものに思える。

時期が来るとイガはパカリを口を開け、イガごと、あるいは実のつぶだけが、大地めがけて着地する。すべてのイガのなかに実が3つ入ってると仮定して、その実たちがひとつぶずつ落ちるとしたら、秋の夜はかなり騒々しく、そして楽しいだろうな、などと思う。

目をつぶって栗の音に耳を澄ませていると、頭のなかに大きな栗林の地図ができる。3Dの立体地図だ。いまのは右側の奥の方から、今度はこっちのすぐ近くの真ん中でずいぶん高いところから落ちてきた。音の方向、距離、高さを感じていると、頭のなかにわたしだけの栗林ができあがる。

栗の形も見えてくる。栗の大きさや形、どんなふうに落ちてきたのか、その様子までくっきりと頭に浮かんでくるようになる。

音は不思議だ。落ちてくる音を聞くだけで、空間のひろがりを感じたり、姿形を具体的に思い浮かべたりすることができる。わたしを基点に作った地図は、いつのまにかわたしに向かって自分のいる場所を教えるようになる。

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■近 況
 昨日、黒い皮のパンツを買った。試着したときにはなかなかカッコ良く、店員にもおだてられたので、即購入。家に帰って、はいてみる。試着の大きな落とし穴は、立ったときの具合しかチェックしていないことだ。部屋のソファに座ってみる。ぎゃー。ヘソより下のヒップではくタイプなので、キツキツの皮の上にたっぷりとお腹の肉がのっている。醜い。苦しい。そしてカナシイ。水曜日に宴会があるのではいて行こうと思っていたが、こんなんで座敷なんかに座ろうものなら、腹は苦しく、足にも血がかよわない。うへー。また失敗。皮パンツをはいたままヒンズースクワットを百回やれば、皮ものびていいカンジになるかしらん。それよりまずは腹の肉をどうにかしなくちゃ。

by ichiko : カテゴリー:エッセイマガジン

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