2008年03月23日

いたちごっこ

春うららの日曜日、庭の草むしりをする。
あいかわらず、枯れ葉のくずやら新芽やらなにやらで
汚れきった庭である。
ぷつぷつと雑草が出てきたので、ここいらで摘み取っておかないと
この先たいへんなことになりそうなので
重い腰をあげてみる。

ぴーぴーとひよどりが怒りながら頭上を飛んでいく。
河原の林のほうからもぴろぴろばーちくといろんな鳥の声がする。
いろんな鳥。
わたしが知っているのはひよどりの声だけなので、
ほかのものたちはみんな「いろんな鳥」ですませる。

土の中から顔を出している新芽をむしる。
むしる。
庭の草むしりは矛盾にみちている。
あちらのかすみ草の新芽は貴重に扱われ、丁重なもてなしを受ける。
こちらのたんぽぽや名も無き(ただしくは名も知らぬ)草は
にっくき邪魔者として引き抜かれる。
あちらもこちらも生きている植物にちがいないのだが
愛されるものと憎まれるものとにわけられる。
人間の都合によってわけられる。
あまり深く突き詰めてもな、とあきらめて、抜く。

それにしても庭の草むしりはいたちごっこである。
正面の庭から始めて、何日かおきに暇をみつけては
東のほう、西のほう、北のほうに手をつける。
ようやくひとまわりしてきれいになったな、とひと息ついたころには、
正面の庭にはもう草が出始めている。

いたちごっこだなあ、と思いながら、
いたちごっこという遊びをしたこともないし、
いたちをこの目で見たこともない、というのに気がついた。
やったことも見たこともないのに、
比喩として使っていいものなのだろうか、などと考える。

ほかには。
絵に描いた餅。
そういえばそれも見たことがない。
だれが餅などを絵に描こうとするのだろう。

清水の舞台から飛び降りる。
ああ、清水寺は修学旅行で行ったから、
これは使ってもいいような気がする。

地獄で仏。
生きているうちは絶対に使えそうにないな。

というようなことをむつむつむつむつと頭のなかでひねりながら
草を抜く。
草を抜いていると、ふだんはおよそ考えもしないことや、
どうでもよさそうなつまらないことが、
えんえんと連想ゲームのようにつながっていく。

春うららの日曜日、庭の草むしりをした。
面倒である。
時間の無駄である。
家のなかで本を読んだりDVDを観ているほうが
よっぽど楽しい。

しかし、日暮れになって、きょうはこれでおしまいにしようか、と
家にひきあげるころには
どこか気持ちがやわらかくなっている。
土の匂いのせいなのか、
土のぬくもりのせいなのか、
よくわからないけれど、
それはたしかに土のおかげであるとわたしは思っている。

by ichiko : カテゴリー:山の暮らしぶり

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