2006年08月14日

戦争を感じるために

こどものころ、父はほろ酔いになるとよく戦時中の話をした。

それはたいていの場合、兄やわたしが贅沢をしたときであり、嫌いなものを食べ残したり、おこづかいをもっと増やしてほしいと談判するようなときだった。「おとうさんがこどものころはな」から始まる苦労話は、うんざりだった。どうしようもなく貧しくて、陰気で、別の国の話のようであったから。

「そんなむかしの話、いまの子にしたってわかりゃしませんよ」と話を遮るのが母の役目だった。こどもたちの心中を察してというよりも、むかしの話をしたがる父とは反対に、母は古い時代の話を嫌った。思い出すのもイヤ、という感じがした。

ここ数年、実家にかえるときまって父に戦時中の話をねだる。ひとつ、あるいはふたつ。あまり多すぎてもいけない。あれほど嫌っていた話をどうしてわざわざ聞こうと思うのか、自分でもふしぎでならない。

父は秋田市で生まれ育った。早くに父親を亡くし、母親は女手ひとつで4人の子どもを育てたというから、戦時中もそうとうに貧しかったようである。学校を出て、早々に国鉄で働いていた父は、爆撃機からの銃弾に追われる友だちを見、その一発が目の前のレールに当たるのを見たという。「鉄のレールが、玉をくらった瞬間にぐんにゃりと天を向いてそっくり返ったもんな」。

夜中に親戚の家まで米をもらいに行き、帰りの汽車で憲兵にみつかって米をそっくり没収された話をするときは、ほんとうに悔しそうである。あの米は、あいつらがぜんぶ食ったにちがいねえ、といまでも父は根にもっている。

「わたしはね、いまは来てもだいじょうぶだよって、合図をする係だったよ」と母が話に割り込む。むかしの話は嫌いなくせに、なんだかなつかしそうな顔をして割って入る。母は戦争の苦労をあまり知らない。旭川市の山奥で農家の子どもとして育ったから、食べるものには困らなかったのだろう。どちらかというと闇米をわけてやる方で、「いまは憲兵も怖い人もいません、米を取りに来てもだいじょうぶ」と遠くで様子をうかがっている知り合いに合図していたそうだ。まだ小さな母が、畑の前に立ち、腕をあげて大きな丸をつくっている姿が目に浮かんだ。

こんかいは、終戦直後の話を聞いてみた。

「街でアメリカ人を見かけることとかあったの?」とばかげた質問をするわたしに、「見かけるもなにもよ、そこいらじゅうみーんなアメリカ人だ。県庁も役所もいいとこはみーんなアメリカ人がとりしきったもんな」という。暴動はなかったの?、なかったなぁ、アメリカ野郎!とか殴りかかる人とかいなかったの?、んなことできるわけねーべ、悔しくなかったの?、だって天皇さまが終わったっていうもんな終わったんだべ、米軍に殴られるとかいじわるされる人とかいなかったの?、いないねぇみんな静かでやさしかったもんな技術を持ってれば仕事もくれたしよ、ふぅ~ん。

窓を閉め切った、きれいな汽車がホームに入ってくる。ひと目みて、アメリカ人の乗った汽車だとわかるそうだ。駅に着くと窓を開け、見たこともないような物資の数々をおろし、そのついでにガムをほうり投げる。父もガムをひろった。ギブミーチョコレートならぬ、ギブミーガムか。映画で見た光景そのままだ。

空に爆撃機が舞い、目の前に銃弾が落ち、いつも腹をすかせて貧しかったというような悲惨な話をしながら、父や母の目が輝いているのはなぜだろう。あのころを生き抜いたという自信なのか、いまはもう平和のなかにいるという安心感なのか。

つぎの話をわたしは待っている。

by ichiko : カテゴリー:夫、身内について

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