2006年07月01日
「悲情城市」について
ラジオから天皇の玉音放送が流れている。あきらかに異国と思われる地の民家で流れる日本語は奇妙としかいいようがない。ラジオの音に女のあえぎが重なり、ひときわ高く叫んだのちに、産声が響き渡る。
1945年8月15日、第二次世界大戦終結の日にうまれた子には、「光明」という名が与えられた。日本の敗戦により、50年間の台湾統治は終わりを告げる。祖国にもどるよろこび、新しい国への期待を、子どもの名に託すところから映画は始まる。「悲情城市」は、この敗戦の日から、2.28事件を中心に描かれる。
小学校で、「ふるさと」を歌っている。病院で、友だち同士で、日本語で話していたりする。知識青年たちが、岩波文庫の「マルクス」を読んでいたりする。「好きで日本の奴隷化政策に甘んじていたわけではない」というセリフにどきりとする。
日本による統治は、台湾に秩序と豊かさをもたらした。法を見直し、鉄道を敷き、上下水道においては本土よりも早く整備が進んだ。農地を開拓し、病院や学校もつくった。台湾の農業高校が夏の甲子園野球に出場し、台湾の若者が日本の大学に進学し、その逆もあった。
しかし、どれほど台湾を整備し、便利さと豊かさを与えたとしても、日本の植民地であることに変わりはない。勉学の機会は平等に与えても、台湾人は「二等国民」として出世を制限した。なによりも、ことばを変えた。学校では日本語を教え、台湾語を使うのを認めず、人前で話すのは日本語を強要した。表現と思考の基礎にある言語をむりやり変えるのは、人としてのアイデンティティーを奪うに等しい。
ひとつの国が、ひとつの国を呑み込み、我が国のものとして経営下におさめる。いかによい経営方法であっても、それはやはりまちがっているのだろう。奴隷化、といわれてもなにも反論する気持ちにはなれなかった。
日本による統治が終わり、「やっと祖国とひとつになる、戻れるんだ」と希望にわく青年たちに目頭が熱くなる。その祖国は、君たちを殺すからだ。日本のかわりに中国本土からのりこんで来た国民党は、暴力によって台湾を支配する。1947年、市民や学生たちによる抗議運動が起こり、台湾全土が軍部の激しい弾圧にさらされる。いわゆる、2.28事件である。
知識人をはじめに、本省人たちがつぎつぎと逮捕され、処刑される。「祖国とひとつになる」と新しい国に理想を抱いていた青年たちも殺される。
「光明」がうまれたとき、歴史を知っているわたしたちは胸のしめつけられる思いで赤子の誕生を眺める。その名からは想像もできないほど、光明の少年時代はつらいものになるだろう。1949年に施行された戒厳令は、解除のときを迎える1987年まで、じつに37年ものあいだ続くのである。そのとき、光明は42歳。
「悲情城市」は1989年の製作になる。戒厳令を解かれた、わずか2年後にこの映画が作られていることに、いまさらながら驚く。
by ichiko : カテゴリー:日々のあれこれ
