2005年10月31日

世にも恐ろしい

ものは、犬である。子どものころから犬が怖くてしかたがなかった。はるか彼方からやってくる野良犬を目にしただけで発狂し、気がついたら川に飛び込んで水びたしになっていたことがある。おとなになってからも変わることがなく、知り合いの家に招かれてお茶などを飲んでいるときに、ただいまぁーと元気な声とともに散歩から戻った子どもと一緒に、口の裂けたおそろしい犬がはぁはぁとドアから入ってくるのを見て、わたしはとっさに食卓にあがって正座をしていた。喰われる、がぶりと、いつかわたしは犬に喰われるだろうという気がしてならない。

それでも近頃はずいぶんまともになった。猫を飼うようになってから、動物たちの気持ちがいくぶんかはわかるようになってきたからであろう。いきなり、がぶりと喰いつかれることはまずない、と信じている。とりあえずは、鎖につながれている飼い犬であれば平静を保てるようになったのは進歩だ。

「私は、犬に就いては自信がある。いつの日か、必ず喰いつかれるであろうという自信である」で始まるのは、太宰治の『畜犬談』だ。じめじめとした暗い心象でつないでいく太宰の私小説は好きになれなかった。生活人としては生きていけず、また、女を道連れに二度も心中を図ったというのも、人として尊敬できなかった理由ではないかと思う。

しかし、いつだったか、この『畜犬談』を読んだあたりから、太宰が好きになった。太宰も犬がこわくてたまらない。襲われないように、そばを通るときには満面の笑みを浮かべ、朗らかに歌などを口ずさみ、こちらに敵意がないことを知らせる。武器だと思われても困るので、外出時のステッキも捨ててしまう。犬に怯えたり、ごきげんをとったり、あるいは犬の卑屈さを指摘する文章は笑いころげるほどに面白い。味わいがある。なんといっても、同じように「いつか喰われる」と怯えていたのには親近感を持った。

さて、長くなってきたのだけれど、きょうの話だ。ひさしぶりに、きょう、わたしは「ああ、ついに喰われるかも」という危機に遭遇した。山ぎわの家まで回覧板を持っていったときのことだ。小高い坂をあがり、庭をぐるりと回り込んだ先に玄関がある。庭には太い針金のようなものが張られていて、そこに鎖を通された犬たちが、自由に走り回っている。どういうわけだか、ころころと犬の種類や頭数が変わり、数年前には猛獣ハスキーがいた。坂をのぼるたびに恐ろしい声で吠え立てられ、針金と鎖がこすれる金属音は地獄からの金切り声のように聞こえた。命がけで回覧板を持っていっていた日々。いまはもうハスキーはいない。死んでいるのか生きているのかわからない、身動きひとつしない老犬と、弱々しいナントカ犬だけの庭は平和に満ちている。

るんるんと坂をのぼって玄関口にたどりついて、わたしは一瞬で石になった。息も止まった。そこには、見知らぬ犬、たぶん野良、がいた。くるりと振り返った野良もかたまる。お互いに、じっと、見つめあう。ああ、ついに喰われる。きょうこそ喰われてしまうのだ。喰われるとわかっていながら走って逃げることもできない自分がカナシイ。動けない、だって、動けない。さあ、どうする。野良はさも興味なさそうに尻を向けた。わたしなど、見なかったように、もとの態勢に戻った。え?あれ?

玄関のわきには大きなプラスチックの箱があった。扉が無造作に開けられている。野良はその中に入り込んでごそごそとうごめいている。落ち着いてよく見れば、地面にはびりびりに引き裂かれたドッグフードの袋がちらばっていた。もう食べ尽くしたのか、空っぽだったのか、ドッグフードはひと粒もない。無心で箱をあさる野良。わたしは、そのままのかっこうで、一歩、そして一歩とゆっくりあとずさり、玄関が見えなくなったあたりで、坂をころがるように走って逃げた。

いかにもわたしはまずそう、ということなのか。匂いさえ嗅ごうとは思わないのか。ドッグフードに負けたのか。生の肉は嫌いなのか。

とりあえず、喰われずにはすんだけれども。

by ichiko : カテゴリー:ねこと動物たち

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