2005年05月31日
力をふり絞って
力をふり絞って書く、というのはこういうことなのだろうなと思う。
書くべきことはもう心のなかにできあがっている。出だしの一行も、途中に入れるエピソードも、そして最後の締めくくりの言葉も決まっている。ただそれをアウトプットして書き留めていけばいいだけだ。なのに、書けない。すぐに手が止まってしまう。
義母のことはいつか必ず書きたいと思っていた。
道一本へだてた隣の家に義母、つまり夫の母親が住んでいると言うと、誰もが気の毒そうな顔をする。大変ねぇ、それは気づまりだねぇと同情されるけれど、みんなが想像するような嫁と姑の関係は何ひとつなく、ここに住んで10年、義母が隣いてイヤだなと感じたことは一度としてない。まるで実の子どものように、義母はわたしをかわいがり、甘えさせてくれた。いつも元気で明るく、頼りがいのある義母はわたしの憧れだった。
「だった」と過去形を使うのは、もう彼女はいないからである。生きている。いまも隣に住んでいる。だが、義母はもういない。認知症(痴呆症)という病気は残酷だ。あれほど生き生きと輝いていた人間を全くの別人に変えていくのだ。そこにいるのに、彼女はもう彼女ではない。これほど残酷なことがあるだろうか。
エッセイマガジンに書くつもりでいた。文字数の制限もないから、思う存分に自分の気持ちを出せばいい。けれど、なぜだかいつもパソコンを前にすると心が乱れ、頭が混乱し、どうしても書き出せなかった。
きょうが〆切の、新聞原稿に義母のことを書いた。15字×57行。わずか855字のなかに想いを凝縮する。元気だったころの義母のあれこれを思い出しては、胸がつまった。何度も手が止まった。悔しくて、腹立たしくて、そして悲しくて泣けた。それでもわたしは書きたいのだ。書かなければならない。義母のためではなく、読者のためではなく、ただ自分のためだけに言葉として外に出さずにはいられないのだ。
書ききれたのか、自信はない。けれど、それがいま現在わたしの精一杯だ。力をふり絞って書くというのは、こういうことなのだろうなと思う。
by ichiko : カテゴリー:夫、身内について
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