2004年12月23日
なんのための著者校なのかね
原稿が掲載された新聞が届くたび、うれしい気持ちといっしょにすこしガッカリする。最終確認でオッケーを出した著者校と、いつも微妙に書き換えられているのである。
修正を入れられることに文句を言っているのではない。なおし、なおされ、というのには慣れている。当然のことである。わたしが怒っているのは、確認でオッケーを出した著者校と、最終的に紙面に載っている文章がちがっているからだ。著者校を出している意味はどこにあるんだろう。
漢字をひらがなに、あるいはその逆、というのはたびたびあるのでいちいち文句をつける気にもなれない。
コラムを書くようになって3年、紙面で使う単語にはその新聞社の決めた統一表記があることは知っている。「今日」「挨拶」「誰か」「子供」は、「きょう」「あいさつ」「だれか」「子ども」にしなくてはならない。「ときおり」は「時折」になり、「ひとつずつ」は「一つずつ」、「よそごと」は「よそ事」。わたしにはしっくりこない表記だけれど、決められているのならしかたがない。
しかし、とくに規定のないと思われる単語はそのたびに表記が変わる。この「規定のない単語」が問題なのである。著者校では「栗」で確認したはずなのに、紙面では「クリ」にもなり、別のときには「栗」にもなる。「愛嬌」でオッケーを出したものが、「愛きょう」と変更されたり、あるいは漢字で掲載されるときもある。
漢字だろうがひらがなだろうがカタカナだろうが、別にいいじゃない、何を気にしているの、と思うかもしれないが、わたしはこだわる。文章を書く人ならわかってくれると思うのだけれど、そのときどきによって漢字とひらがなを使い分けている。内容だけではなく、見た目と読みやすさにもこだわって書いている。前後の漢字の配分や字面、おさまり具合を考えて、漢字とひらがなのどちらにするか使い分けているものなのだ。
だから、栗をクリに変更するのなら、著者校のときにそう書いてきてほしいのだ。そうすれば、「ここは『栗』と漢字にしていただけないでしょうか」と相談するチャンスができるのである。
漢字ひらがな以外にも、微妙な言い回しも削除、もしくは書き換えられたりする。わずかとはいえども、勝手に書き換えられては困るのである。直したいのなら、これもまた著者校の時点でそう書いてくるべきだ。
たぶん、相談する、という気がはなっからないのだろう。半年前に、思いきって担当者に電話をかけてみたことがある。漢字やひらがなの表記、言い回しを変えるなら著者校のときにそう書いて出してくれないでしょうか。言い回しが変わるところは、相談してから変更してもらえないでしょうか。
「え?なんでそんなことを気にするの?」とでもいいたそうに担当者は答えた。漢字がひらがなになったことで何か問題がありますか、新聞には新聞の適切な表記が決められています、こちらで適切な表現に変えましたが意味することになんら影響はないですよね。
一方的なんである。この人には字面の美しさとか、言い回しのこだわりなどは理解できないんだろうなと思った。だから最小限のお願いだけをすませて終わらせることにした。
「せめて、変更する前にひとこと相談してもらえないでしょうか。編集者と執筆者というのは、相談しながら、よりいいものを作っていくものですよね?」
「え?相談、ですか?」
「そうです。書籍や雑誌の編集者とはいつもお互いに意見を出しあいながら書いていますので、そのようにしていただけないものかと思いまして」
ここで電話の向こうから、くっくっくと笑う声が聞こえる。
「あなたねぇ、新聞ですよ、シンブンっ。わかっているのかなぁ。そこいらの雑誌だの書籍だのと一緒にせんでくださいよ」
話はここで終わり。これ以上、言っても無駄な人にはわたしは貝になります。
今回もいくつか変えられていたけれど、サイアクは「見かける」と書いたところを「見掛ける」と直されていたこと。見掛ける、だなんて、ホントーに気にくわない。イノウエが、見掛けるなんて書くわけがない。
by ichiko : カテゴリー:仕事あれやこれや
