2004年12月11日
あのときのプロパー
フィブリノゲン製剤による肝炎の感染。薬害エイズに続き、いったいキミたちは何をやっていたのか、と言いたくなる。
この前もちょっとふれたように、若いころ、医学部の医局にいたことがある。教授や助教授、スタッフドクターなどの部屋と、研究室、カンファレンスルームがあり、偉いお医者さんたちが集まる場所だった。
長い長い廊下で付属病院ともつながっていたけれど、医局は学部棟のほうにあったので、わたしが患者さんに接する機会はない。そのかわりによく出会うのが「プロパー」と呼ばれる人たちだった。
現役の医者に聞いたら、「あなたがいうようなプロパーは、いまどきいません」ということなので、わたしが話すのは遠い昔語りになる。
わたしが知っているプロパーは、実に不思議な存在だった。カンファレンスルームのすみで、あるいは廊下で、いつもじっと立っている。医者たちは、その存在を無視して話をし、誰もいないかのように通り過ぎる。ひっそりと立って何かを待っているような人たちが、新薬の宣伝と売り込みをする薬剤メーカーの営業マンであると知ったのは、ずいぶん後になってからだった。
あるとき、「新しい時刻表が必要なんですが」と医局長に頼むと、「プロパーに言いなさい。必要なものはたいていそろえてくれるから」という答えが返ってきた。わけもわからぬまま、ひとりのプロパーをつかまえて、おずおずとお願いする。翌日には真新しい時刻表が届いた。医者でもないアルバイトの小娘にも、へこへこと頭を下げるプロパー。まるで奴隷みたいだ。無知で若かったわたしは、くだらない用事をわざと言いつけたりして面白がったりした。
この時期になると思い出すことがある。医局の忘年会は、一流ホテルの宴会場で華やかに行われる。わたしはその手配や準備に追われ、当日の受付には振り袖姿で座った。プロパーが持参する薬剤名入りのボールペンやメモ帳が、年末は封筒に変わる。忘年会にお役立てください、と手渡された封筒は思いのほかずっしりと持ち重りがした。
いちばん印象に残っているのがミドリ十字という名前だ。羽振りがよかったせいもあるが、わたしのいた科が血液の専門だったからだろう。まわってきたカルテに、急性骨髄性白血病などという恐ろしい文字が書かれている科だ。
もしかしたら、あのプロパーが非加熱製剤やフィブリノゲン製剤を納入していたのかもしれぬ、などと考える。いつもにこにこと笑顔を絶やさず、人のよさそうな丁重な物腰で、ボールペンや時刻表を渡すときと同じようにせっせと血液製剤を運んでいたのかもしれぬ。
by ichiko : カテゴリー:日々のあれこれ
